グッバイあの頃のありふれた風景
なぜ人は、木を切っているのを見ると憤るのだろうか。
いままで気にも留めていなかった木だとしても、その行為を許せないと怒りや空しさを抱いてしまうのは、なぜだろうか。
ちょうど一年前、近所の景色が一変した。
そこは小高い山の中腹辺りで、古い家の周りには、大きな木がたくさん生えていた。若葉が芽吹き、二階建ての家よりも背が高い桜の木から花びらが散っていた。
山萌える、その景色は毎日の楽しみだった。
のに。
冬の間に一軒の家が取り壊された跡の空き地に、大きなクレーン車がやってきた。リフト車やトラックもやってきた。おじさんたちもやってきた。
そして、木を切り始めた。
リフト車で高い枝を落としていたので、なんだ剪定に来たのかと思いきや、丸坊主にしてしまった。ただの太い棒になってしまった幹を上から輪切りにした。それはどんどん短くなり、最後には根を掘っていった。
次から次へと、何本も伐採するその作業を、iPhoneで写真を撮りながら監視していた。
側を通る近所の人が何人も足を止め、切り倒されていく様子を見ていた。中には、業者の人に話しかけている人もいた。
何か言わずにはいられない、その気持ちがよくわかった。
木を切らないで欲しいと願ってもどうにもならない。それはわかってはいるが、一言、物申したいのだ。
これまで木々やそこに建っていた家に隠れてほんの一部しか見えなかった桜が最後に残った。
まだ花は満開といってもいいほどで、枝振りのよい見応えのある姿だった。
そんな木がお庭にあって、毎年独り占めして花見をしてきたその家の人たちの生活を思い描いた。
拓いた跡地に家を建てるのだとしても、この桜の木はさすがに残すだろうな。こんなに綺麗なんだから。
残すよな?
残してくれよ。
願いは届かなかった。
一昨日、その場所に新しい家が建った。
たった一日で木材を組み立て、屋根までついてしまった。
そこに生えていた木々は、何十年もかけて大きくなったのに、家だけはにょきにょき一日で建つ。それは誰かの夢あふれるマイホームで、そこに暮らす家族とその生活を守るだろう。
わたしの中には、あのときの憤りがしこりとなって残っている。
それは、伐採の業者や、そこに新しく住む人たちのせいではない。自然破壊だとか、地球温暖化だとか、そんな社会正義みたいなことを言うつもりもない。家を建てる以外に、倒木の危険性などちゃんとした理由もあるのだろう。そんなことではなく、これはもっと利己的なものだと、一年経ってようやく気づいた。
あの日、わたしの日常が一つ、壊された。
それだけのことだ。
(了)
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