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草津温泉に浸かってハンセン病の歴史を学ぶ

美術館や資料館を巡る一人旅をしています。
中でも、数年前からハンセン病問題に強い関心を持つようになり
ハンセン病療養所と関連の展示に足を運ぶようになりました。

日本の国立ハンセン病療養所は13か所(私立を含めると14)あり、
これまで岡山県の長島愛生園、沖縄県の沖縄愛楽園、香川県の大島青松園、青森県の松岡保養園に行き(コロナ感染対策で療養所敷地内の見学はできませんでしたが)各社会交流館を見学しました。

今回は2023年10月に行った
草津にある栗生楽泉園と重監房資料館の感想と理解の整理も兼ねて文章で残していこうと思います。

草津温泉の歴史を知ることにもなるので、草津温泉を旅行する前に読んでもらえると、温泉街の散策も発見が多いものになるかもしれません。

ハンセン病を知らない方もいるかもしれないのでこちらを載せておきます👇

※以下の文章は、出典は記載していませんが資料館でメモしたことやその他配布資料などをもとに書いています。
間違いがないように気を付けていますが、誤りなどあればお気軽にコメントいただけたら幸いです。
適宜、情報訂正や追記で対応したいと思います。

今回訪れたのは、
・国立ハンセン病療養所 栗生楽泉園の社会交流館
・重監房資料館
・リーかあさま記念館
・草津町温泉図書館(草津温泉バスターミナル3階)

訪れた場所の位置関係
↑中央の小さな丸の辺りがコンウォール・リー氏のお墓の位置です。

それぞれの行き方や歩いた感じなど、最後に紹介します。

ーーー草津温泉の歴史ーーー

 草津温泉は明治以前より病に効くと言われ、様々な病気に苦しむ人が温泉を求めて集まっていました。
特に、ハンセン病や梅毒など、症状が皮膚に顕れる病の人が多く来ていましたが、健康な人も湯治目的の病者も一緒に湯に浸かる環境だったそうです。
ハンセン病患者は、病気に対する誤った理解から、長い間偏見と差別を受けてきた歴史があり、そのような歴史を考えると同じ温泉に入浴するという話は意外に思えました。
これは、そのような環境が続いていた温泉街では一緒の風呂に浸かってもハンセン病は感染しないと経験から知られていた、また、当時ハンセン病は遺伝病といわれており感染しないと思われていたためではないか、ということでした。
また、草津温泉を世に広めた立役者であるベルツ博士が草津温泉がハンセン病に治療効果があると唱えたため、ハンセン病患者が効能を求めて草津温泉にたくさん来たと言われていますが、実際に「草津温泉がハンセン病に効く」という根拠は定かではなかったそうです。(温泉に入って症状が和らいだり、良い効果はあっただろうと思うけれど)

湯治目的で草津にやってくる人々の中には、ハンセン病のように家族のもとに戻ることが難しい人などがそれなりの財産を持って来る場合も少なくなかったそうで、旅館にとっても大事な収入源となっていた面がありました。
旅館では裏口からハンセン病患者である客を出入りさせて、人目につかない客間を与え、夜に入浴させたりしていたそうです。

そんな草津の温泉街が明治2年(1869年)大火に見舞われます。
その大火からの復興のため、唯一の資源である温泉を宣伝して客を呼び込もうとします。
その際に、これまでのようにハンセン病患者が同じ宿を利用する環境では体裁が整わない、ということで、温泉街の坂の下あたりに彼らの集落「湯之沢地区」をつくりそこに患者を追いやったそうです。

湯之沢地区というのは、湯畑からの坂を下りきった方向にあります。
ちょうど谷になっている場所で、旅館で所持金の底をついた瀕死の客、引き取り手のない客の遺体などを、かつてはその谷の上、つまり崖から放棄していたという場所だそうです。
ハンセン病者たちは、そういった温泉街のはずれに追いやられてしまったのです。
(草津に限らず、昔は行き場のない遺体を谷や崖から放棄することがあったそうな)

湯之沢地区のハンセン病患者たちは、温泉に入り、各々仕事をして暮らしていました。
宿経営や、飲食業、呉服業…など多岐に渡る仕事で、客の多くもハンセン病者だったそうです。また、地区から町会議員が出るなど、行政に認められたハンセン病者の地区として成立していきました。

そんな中、1915年(大正4年)コンウォール・リー女史という宣教師が草津にやってきます。
リー女史はイギリスの名家の才女で、両親の死後、憧れの日本へ来日し、草津のハンセン病者の現状を知り、58歳の時に草津へやってきました。


草津温泉バスターミナルにある
重監房資料館の看板とコンウォール・リー氏(草津温泉のマザーテレサと書かれている)の写真

ハンセン病者の男女比は、男性が多く、女性が少ない。集落の中で、そのような男女比で生活をしていると、とりわけ若い女性が大変な困難を抱えることが少なくなかったそうで、リー女史はそういった女性たちのために旅館の部屋を借りて、収容しました。
旅館の一室からその規模はどんどん大きくなり、旅館を買収するなどして女性寮、男性寮、夫婦寮、子供寮、そして教会、病院、などを私財や寄付を集めては建てていきました。1916年(大正5年)から始まったこれらの活動は「聖バルナバ・ミッション」と呼ばれています。

ハンセン病の特効薬がなかった当時、男女を分けて子供ができない環境にすること、子供が感染しないように親と離れて生活することが重要視されていたので、すでに夫婦だった人たちのための寮も建てますが、この”寮を分けて建てる”ことが大事だったようです。

湯之沢地区の人々のために、懸命に尽力したリー女史は「リーかあさま」と呼ばれ慕われていたそうです。
 当時は、亡くなってもお葬式もされずお墓にも入れないことが多かったハンセン病者に対して、リー女史は、自ら丁寧に湯灌をし、お葬式をして弔ったそうです。

リーかあさま記念館

現在は、移設した教会とその隣に「リーかあさま記念館」があり、その目の前に唯一当時のまま残っているバルナバ・ミッションの建物「マーガレット館」(こども館)があります。

リーかあさま記念館向かいにあるマーガレット館

ーーー国立ハンセン病療養所栗生楽泉園の成り立ちーーー

1931年(昭和6年)、ハンセン病患者は全員隔離するという「癩予防法」が制定され、湯之沢地区の住民を隔離収容するための国立ハンセン病療養所栗生楽泉園が建設開始、翌年1932年に開所します。

国立ハンセン病療養所 栗生楽泉園入口の門

開所までの交渉の末、療養所内でも温泉に入れるように草津の湯畑から温泉を引湯することになりました。今現在も療養所内に温泉が引かれていて、湯畑の下から見て左端の1本は楽泉園へ流れています。

湯畑のそれがわかる肝心の写真をまさかの撮っていなかったので、楽泉園で頂いた資料から👇(写真撮って載せていいものか悩みましたが…)

栗生楽泉園の資料より

ただ、湯之沢地区の住民は療養所に収容されたくないため、すぐには誰も入所せず、最初の入所者は湯之沢地区の旅館で所持金を使い果たした全盲のハンセン病者だったそうです。その後も湯之沢地区での生活が難しくなった患者など入所者は少しずつ増えていきますが、療養所と湯之沢地区の両方にそれぞれ暮らしている状態が続きます。

温泉街から楽泉園に向かう途中にあるリーかあさまのお墓

1941年(昭和16年)療養所開設から9年後のこの年、日米開戦でアメリカからのバルナバミッションへの寄付金が停止。それによる資金難とリー女史の逝去に伴いバルナバミッションが解散。同時に県からの厳しい働きかけもあり、遂に湯之沢地区が正式に楽泉園へ移転します。

湯之沢地区から集落ごとの移転ということで、他の国立療養所にみられない点として「自由地区」というものが設置されました。
資金のある患者は湯之沢地区の家を自由地区に移築したり、建てたり、食費を収めれば患者ではない家族も一緒に住むことが認められていたそうです。
当時、狭い部屋に何人も収容されていた療養所が多い中で「自宅」を持つことが許されていたというのは、かなり驚きました。

そして、楽泉園開所後10年近くも湯之沢地区で生活を続けていた患者が多かったことからも、コミュニティの中で働き、家族と暮らすことで地域が成立していたということは、国の強硬な隔離政策が不要であることは当時から明らかだったと思うし、そのことを実感している当人たちが療養所への入所を強いられた時の苦渋は受け入れがたいものだったろうと改めて感じます。

また、このような経緯から、他の療養所のように海や塀、柊などで療養所を囲うといった隔離を象徴するような物理的な境界が存在せず、それどころか、近隣の住民は療養所内を近道として通行していたそうです。

ーーー全国で唯一の重監房(特別病室)ーーー

栗生楽泉園が昭和7年に開所し、昭和16年に湯之沢地区の患者が完全移転する少し前の1938年(昭和13年)、栗生楽泉園の敷地内に「重監房(特別病室)」が設置されます。

重監房跡
(注:ここは重監房資料館付近ではなく、栗生楽泉園入口門の近くにあります)

以前、他の療養所を訪れた時の解説で
反抗的な入所者に職員が「おまえ温泉入りたいか?」と”草津送り”、つまり重監房収容をほのめかして脅かすこともあった、と聴いたことがあります。

重監房とは、規則を破ったり反抗的などの理由で、全国の療養所から連れてこられた患者を収監する、厳重で劣悪な監獄のようなものです。

 当時、各療養所長に与えられていた懲戒検束権という権限によって、裁判を経ることなく、患者を収監することができる仕組みになっていました。
全国の各療養所にはそれぞれ「監房(監禁室)」があり、規則違反などで患者が収容されていました。
 そんな中、1936年(昭和11年)に岡山県のハンセン病療養所長島愛生園で定員超過の収容者数を抱えた療養所の環境悪化に対する患者たちの不満が爆発し、待遇改善を求めた暴動が起おきました(長島事件)。この事件をきっかけに全国の療養所所長たちは、さらに厳しい懲罰施設の設置を求めたそうです。

 そして、長島事件から2年後の1938年(昭和13年)12月に草津の栗生楽泉園内に重監房が設置され、全国の療養所から処罰対象の患者が草津まで送られることになったのです。
 日も当たらず、冬には布団が凍るほどの寒さの中、僅かな麦飯と味噌汁が1日2回与えられる以外は水も与えられず、治療も一切行わずに患者を閉じ込める重監房ですが、当時は「特別病室」と呼ばれていました。

 重監房が草津にできた経緯や設計図などの詳細はほとんど残っていないそうです。
 あえて残さなかったのかは定かではありませんが、「懲戒検束権」の処罰内容には、監禁は30日以内、減食は1/2まで、など上限がありました。
 しかし重監房では、劣悪な環境に加えて、最長で500日を超えて収監するなど、上限も一切無視して行われていたことから、外部に知られると批判の対象であることは認識した上で行われていたように感じました。
 実際、収監される理由も、反抗因子と疑われたり、懲罰対象者の妻だから、など、あまりにも軽微なものや相応とは思えないものばかりでした。

 重監房は現在、建物はなく、楽泉園の門を入ってすぐ右手の道を進むと、重監房跡地に基礎のみが残されているのを見ることができます。楽泉園の門衛(出入りを見張る番人)が重監房の看守も兼ねていたそうです。

重監房跡地を坂の上から見た写真
各監房のトイレ用の穴が板と石で塞がれている

重監房資料館には、重監房跡地の発掘調査と少ない資料から重監房を実寸サイズで再現したスペースがあり、部屋までの通路を通って部屋の前で中を覗くことができます。

これが本当に!!実際に訪れて実寸サイズで体感してほしいと思いました。
 
 4メートルの壁に二重に囲まれた重監房の再現の中に立ち入った時、私は怖くて声を上げそうになりました。
 再現ですら、他の展示室に居るはずの人の気配が一切消えて、音もほとんどしない。部屋には、食事の受け渡しをするだけの小さな窓と、その上部にわずかに光が差し込む程度の窓があります。どちらも、窓というより四角い穴。その窓は、コンクリートで囲まれた通路に面しているので、中から覗き込んでも外の景色ではなくコンクリートの壁が見えるだけでしょう。
 重監房の部屋にだけ屋根があり、通路には屋根がないので、窓から光は多少入ったようですが本当にわずかで、監房の中には電気も通っていなかったそうなので、部屋の中はほとんどの時間真っ暗だったのではないかと思います。
 草津の厳しい冬、窓から雪が入り込もうと、そこにトイレ(仕切りはなく室内に掘られた穴で、その穴は排泄物回収のために外部へと繋がっていたものの、その穴から脱走した人がいたので穴の深さを浅くしたそうです)と薄い布団だけがあって、1日2度のわずかな食事だけ。
  重監房へ食事を届けるのは楽泉園の患者が担当していましたが、監視の職員が一緒なので言葉を交わすことも許されなかったそうです。壁には、自分の血で、日付や心の叫びのような言葉が書かれていたそうです。

 重監房資料館では、実寸再現の他に、重監房に収容された人の93人分の年齢や収監理由、収監期間、死亡年、死因などの記録が展示されています。重監房が使用された9年間に93人収容され、23人が亡くなりました。死因は、縊死や病名などが書かれていましたが、病気の治療もされずに劣悪な環境に閉じ込められ、食事の配給時に前の食事が残っていて亡くなったと気づくような状況では、記録された死因がどれだけ正確なものかわかりません。(衰弱して食事が取れずにいたら、亡くなったと思われて重監房から出ることができて助かった人もいたそうです)

 重監房は、選挙運動で楽泉園に来た共産党の議員が、公に批判したことでその存在がニュースとなります。
 これが発端となって、1947年(昭和22年)10月に廃止されました。その後、重監房の壁の木板などが療養所内で再利用されるにあたって、壁に残された言葉を見たという入所者もいたようです。
 先述した、当時楽泉園入所者で重監房へ食事を運んでいた方の証言も証言映像で観ることができます。当時少年だったその男性入所者にとっても忘れられないつらい経験であったことが語られていました。

重監房は、資料が本当に少なくて、不明な部分も多いようです。
重監房資料館のロビーに当時の重監房の外観が写った大きな写真パネルがあるのですが、その写真も資料館の開館後に見つかったものだと、学芸員の方に教えていただきました。

ーーー各施設の行き方とリンクーーー


今回はすべて徒歩と公共交通機関で行きました。

私は普段もめちゃくちゃ歩くので温泉街から楽泉園や重監房資料館まで片道50分ほど歩くのが苦ではなかったのですが(1日歩いた後の温泉は格別✨)普段歩いていない人は到着前にクタクタかも。
タクシーもありだし(ってか普通歩かないのでは😅)重監房資料館公式HPでも徒歩での時間、途中までバスでの行き方が掲載されています。

道のりは、自然豊かで人通りも少なく歩道もない(けど当時近くで工事してたので時々大きなトラックとか通過したり)のでちょっと不安になったりもしました。

国道はこんな感じ。
誰もいないし歌いながら歩きがち。
国道から重監房資料館の看板を曲がると
資料館まではこんな感じの自然豊かな道。
冬の雪道はさすがに徒歩は無理そう(雪国育ちの私はいけるかも←)

でも徒歩だと温泉街と療養所の距離感や自然の感じが体験できたり、
途中でリーかあさまのお墓にも寄れたり、

国道を歩いているとリーかあさまのお墓への入口が。

こんな看板があったり。

かつてここに保育所があったんだな。
場所的に療養所と少し離れているような。

こんな感じなので徒歩の場合は暗くなる前に温泉街に戻るように💡
一人で行動するときは警戒心とか予定とかしっかり持っておきましょう(おまゆう)。

国立ハンセン病療養所栗生楽泉園 社会交流館(資料館)
(湯畑から45分くらい)
・見学は要予約です。前もって電話しておきましょう。入館無料。

 展示は充実していて、本当に行ってよかったと思いました。
この地域のハンセン病の歴史、楽泉園の歴史が年表になって時系列で紹介されていたり、当時療養所まで温泉を引いていた、患者たちによって作られた木製の引導管や、特効薬ない頃使われていた大風子油の、大風子の実と種の実物など、実物の展示が多かった印象です。絵画や書など入所者の方々の作品も展示されていました。全体的にかなり見ごたえがあります。

所要時間は、超じっくり写真撮りながら全部見学して2時間くらいでした。
展示物が多いので、全体をさくっと一通り見学しても1時間はみといたほうがいいかも。

楽泉園に限らずハンセン病療養所の園内には現在も回復者の方々が生活してらっしゃいます。勝手に立ち入ってはいけない場所がほとんどです。どうしても見学したいときには電話して確認しましよう。
(👇のHPにある申請書は、私は個人見学だったから?不要でした)


重監房資料館
(湯畑から徒歩45分)

入館無料。
楽泉園敷地内の納骨堂の隣にありますが、訪れる際には楽泉園内からでなく国道の看板に従って進みましょう。

昨年までは冬期は個人見学を受け付けていなかったと記憶していますが、公式HPに今年は冬季個人見学も予約不要とあるので、こちらは草津温泉についてからでも予約無しで見学できそうです(行く前にHPや電話で確認を)。
企画展示をやっていることもあるので
休館日や開館時間と合わせてHPで確認を💡

所要時間は、私は閉館まで証言映像観てたから定かではないけど
広さ的には1時間もあればざっくり観られる気がします。

https://www.nhdm.jp/sjpm/


リーかあさま記念館
入館無料、だった記憶。
こちらは冬期閉館だったはずです。
私は重監房資料館で教えてもらって行ったので、正確な閉館時期をどこで調べられるのかわからず…
毎年11月末~翌年4月中旬は休館らしいです。

広さは小さめですが、学芸員さんが丁寧に解説してくださってとっても勉強になって前日まで存在も知らなかったのに行けて本当に良かった…!
解説してもらってじっくり見学して所要時間は1時間くらい。


草津町温泉図書館
(草津温泉バスターミナル3階)
こちらも重監房資料館の学芸員の方に教えてもらって行ったら、時間が足りなかった!
 町の図書館ですが草津温泉の歴史がわかる資料展示もあって、バスの待ち時間や温泉街散策のついでに寄ってみるのがおすすめです!ハンセン病関連の書籍や回復者の方の詩集なども(私はここで香山末子さんの詩に出会った…!)。

ちなみに、草津温泉バスターミナルから温泉街と反対方向に歩いて数分のところにある清月堂という甘納豆屋さんの甘納豆がめちゃくちゃ美味しかったです。(お土産屋さんでたくさん売ってる「清月堂」とは別のお店らしい)
温泉散策から足を伸ばして図書館寄って甘納豆買うのがおすすめです!


そのほか草津温泉旅のあれこれ

今回は東京から高速バスで行って2泊しました。
泊まった温泉宿がはからずも湯之沢地区だったみたい。
小さな橋に湯之沢の名が残っているそうです。


川から湯気出てるー!って撮ったこの橋がそうだったかも?

行程は、1日目楽泉園社会交流館、2日目重監房資料館、最終日にリーかあさま記念館と周辺散策、光泉寺、西の河原公園、草津温泉図書館、という感じ。

美術博物館旅は、詰め込んでも閉館時間以降はゆったりタイムになるので、暗くなってから温泉入ったりお蕎麦食べたり浴衣で足湯に出かけたり。
温泉は熱めだけど露天風呂だとちょうど良くて気持ちよかったなあ。

足湯で最近リゾートバイトで草津に来たという人に話しかけられたので、重監房資料館の存在を伝えたら今度行ってみる!とメモしてくれたり。
温泉まんじゅう食べそびれてて帰りのバス時間ギリギリに慌てて買ったり。
お土産屋さんで買った草津温泉のしっかりめの入浴剤はかなり好評でした。

・湯畑を見下ろす位置にある光泉寺は、階段の途中に楽泉園に入所していた歌人村越化石の歌碑があったり。

右が村越化石、左が小林一茶の歌碑

・湯畑エリアに「栗生」(?)と書かれた療養所に温泉が流れていることがわかる小さいマンホール?配管の蓋?(名称がわからない…)があるらしいのだけど、足元見てしばし歩いたけど見つけられず。

・リーかあさま記念館近くを散策してると公園があって

頌徳公園

地元の子供達が遊んでる公園内にリーかあさまの記念碑があったり。

碑の横に解説が。

・道の駅?にある「ベルツ記念館」は教えてもらったんだけど、時間切れ!
 車で来る人は寄りやすいかも。

西の河原公園は広いからこれまたちょっと歩くけど、ベルツ博士の碑や銅像がありました。

ベルツ博士・スクリバ博士の銅像
銅像の解説

・ベルツ博士が提唱した「時間湯」って、湯もみした48℃の温泉に3分入浴を1日4回というやり方らしく、相当な熱い湯だったらしい…

・リーかあさまと共にハンセン病者たちのために尽力した女医の服部ケサ、看護師の三上千代の2人については詳細は割愛しますが存在だけ紹介しておきます。

これほどハードに温泉旅行に詰め込む人はそういないかもだけど、
重監房資料館はぜひ行ってみてほしいです!

でも、一人旅じゃないし時間的にも難しいわ!!って時は
リーかあさま記念館草津温泉町図書館は温泉街散策のついでに寄れるのでぜひぜひ足を運んでみてください!

ご当地プリンの瓶をお土産に持って帰るタイプ

この旅の記録は、転職前の有休消化の時期に旅をしてすぐに書いた文章に写真を合わせてまとめたものです。
今後は、もうちょっと簡潔にまとめて紹介していきたいと思います…
そして転職を果たし有休もなく、旅もしばらく出れそうにないので
過去の旅をここで紹介していけたらと思います。

ーーー最後にーーー


重監房資料館の開館は2014年です。
この歴史を残し伝えようと、資料館開館のために尽力した当時すでにご高齢の回復者の方々の姿を写真などで拝見するたびに
日常ではハンセン病問題と直接関係のないような暮らしている私のような人が、実際にその場に足を運んでそれまで知らなかった過去の事実を知り、
そういった状況で生活されていた方や壮絶に命を落とすことを強いられた方の存在を心に留めること自体が、受け取る側として彼らに応えることになる気がしています。
そして知るほどに、この歴史が自分がいる今の社会と、
自分の毎日と無関係ではないことを感じます。

だから、よく知らない人にこそ、
旅行を楽しむついでに触れて知って欲しいです。

そんな気持ちで、こんなに長々と書いて公開しました。
研究者、学芸員の方々の尊い仕事に感謝を込めて。

本当にとんでもなく長くなってしまいましたが、
読んでいただきありがとうございました!

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