できることなんて

できることなんて限られているけれど

番組が終わると知ったなら

最後の数回ぐらいはちゃんと聴きたい。

できることなんて限られているけれど

番組が終わると知ったなら

最後の数回ぐらいはちゃんと聴いて欲しい。

それが私にできることなんて
言えるほど偉くはないけれど。

たとえ番組が終わると知らなくても

毎回の放送を楽しみにできるひとでいたい。

そんな気持ちも当然ある。

この気持ちは大前提である。




ラジオを聴くようになって
改編という言葉をよく耳にするようになった。
主にそれは春と秋に訪れるもので、

何がきっかけで、何が理由でなんて、
ただ聴いてるだけの私には
到底わからない。

不意に終わりを知らされて
不意に始まりを知らされる

そういうものだ。

radikoというアプリには
シェアという機能がある。
SNSを使って、
好きな人に、好きな番組を、好きな時間を
好きなようにおすすめできる。

それが何の役にも立たないかもしれない。
偽善ぶるなと煙たがられるかもしれない。
その機能を使うかどうかは自由である。

使えば少しは、番組に貢献できるのだろうか。

最後の数回ぐらいをちゃんと聴いたとしても、
番組が終わることは決まっているのに。


それでも自分は、できるかぎり、
活用していけたらな。
なんて思ってしまう。




なぜなら

パーソナリティでも
ハガキ職人でも
なんでもない自分が
何者かにはなれる瞬間は、

実機から、車の中から、radikoから、
聴こえてくる声に耳を澄ませて。
メールを送り、SNSを活用し、
ただ笑い、ただ泣いて、そんな風に。
リスナーとして、拝聴者として、
生きている瞬間のことだったりするから。









できることなんて限られているから

番組が始まると知ったなら

最初の放送ぐらいはちゃんと聴きたい。

いつまで聴くのかなんてわからないけれど

一度出会ったラジオにはできるだけ大切に

できるだけ好きなように耳を傾けたいから。

きっと、これからも、そんな日々。

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