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自分を変えたいなら「暇」であれ

突然だが、ここで質問だ。

この記事を読んでいるあなたは、自分のことが「好き」だろうか。

僕は「好き!」と即答できる。しかし、世間を見渡してみると、自分のことが好きだと言える人は、実は少数派なのではないかと感じる。

では、質問を変えよう。

あなたは「暇」だろうか?


嫌いな自分

思い返せば、僕も昔から「自分のことが好き!」と自信満々に言えたわけではなかった。嫌いな部分やコンプレックスが山ほどあったように思える。身長が低い顔がブス声がキモいオタク陰キャ。他にも、手掌多汗症という身体の異常を抱えているなど、とにかく自分のことが嫌いだった。その中で、一番のコンプレックスとなっていたのは「コミュ障」であることだ。

僕は昔から、人と話すのが苦手だった。だって、初対面の人と何を話していいのかわからないじゃないか。そもそも、人に話しかけていいのかもわからなかった。突然僕みたいなクソキモ陰キャオタクが話しかけてきたら、相手も不快に思ってしまうんじゃないだろうか。そんなことを考えていたら、人と話すことなんてできなかった。

そんなわけで、今では自分を溺愛しているナルシスト予備軍みたいな僕も、昔から自分のことが好きだったわけではないのだ。逆に言えば、今、あなたがどんなに自分のことが嫌いであったとしても、今後、自分のことを「大好き」になることができる。そんな話を今からしていきたいと思う。


か不幸か「暇」だった一年間

みなさんの記憶に新しい、というか今もなお、猛威を振るい続けているCOVID-19。確か、日本で流行り始めたのは2020年の4月頃だった。僕はちょうど大学一年生。花のキャンパスライフを期待していたが、キャンパスに入ることは叶わず、在宅ライフが始まってしまった。

キャンパスに行くことがなくなり、在宅になった。つまり、通学時間がなくなったのである。つまり、この一年間で、通学するはずだった分の「」が生まれた。

ここで生まれた「」な時間は、なにも通学に限られたものではなかった。例えば、サークル活動をするはずだった時間もなくなった。友達と昼休みに飯を食うはずだった時間もなくなった。大学の帰りにダラダラ寄り道するはずだった時間もなくなった。

これらの、本来別のことに消費されるはずだった僕の時間が、すべて「」な時間へと変わっていった。

そう、すべてが自分の時間になったのだ


自分と向き合えるのは「暇」だから

こうして大量の時間を手に入れた僕は、とにかく毎日、モヤモヤといろいろなことを考えていた。

自分は何がしたいのか」「なんのために大学に行っているのか」「これからどうするのか」「将来はどうやって生きるのか

とにかくいろいろなことを考えていた。大学に行かない分、ひとりで近所を散歩したり、部屋にこもっていたり、とにかく自分と向き合っていた。おかげでこの頃には、自分のことをよく理解することができるようになっていた。長所短所それを直すための手立て過去のいろいろを含めて。

毎日忙しい人は、よほど、自分でその時間を取らない限り、自分と向き合っうことはないだろう。自分のことを見つめることは、自分が「」でなければ不可能だからだ。「」だからこそ、ふとした瞬間に自分を見つめ直すことができるのである。


行動できるのは「暇」だから

2020年の秋になり、大学で対面授業が行われるようになると同時に、自分の時間も減ることになり、ひたすらに自分と見つめ合っていた時期も終わることとなった。

しかし、これでもまだ、僕の「」な時間はなくなったわけではなかった。

一般的な大学生は、アルバイトというものをしている。僕もその例にもれず、春くらいからアルバイトにいそしんでいた。

僕は当時、個別指導塾で講師のアルバイトをしていた。いわゆる時間講師だ。僕のアルバイトの理想としては、1日4時間、週3日の勤務である。これなら、満足にお金を稼ぐことができるとともに、無理のないキャンパスライフを過ごすことができると考えていたからである。もちろん履歴書にも書いた。

しかし、半年間働き続けても、このアルバイト先でこの理想を実現することはできなかった。どうも、僕の職場では、「講師が余っている」という状況だったらしい。そのため僕のアルバイトは、理想よりはかなり少ない、1日1~2時間、週2日勤務という状態だった。

幸か不幸か、僕はまだ「」だったのだ。

人間は「」があれば、自分と向き合うことになっている。僕はここで、自身のある問題に大きくフォーカスを当てた。それが、

コミュ障であること

冒頭でも話したが、僕は人と話すのが苦手だった。コミュ障でさえなければもっといい人生を送れていたじゃないか。今も職場で生徒や、同じ職場で働いている人たちに対して、コミュ障を発揮している。これさえなければ。どうにかならないのだろうか。

コミュ障を治したい

そう思うだけならいつもと同じだった。しかし、僕は今、幸運にも「」だったのだ。

」だったので、僕はすぐさま書店に向かった。まずは、人と話すためのテクニックが書かれた本を探そうと思った。幸い、アルバイトを続けてきた僕には、本を買うには十分すぎるお金があったのだ。

」だったので、僕はすぐさまその本を読んだ。そして、まずはアルバイト先で生徒に対して、その本で読んだ方法を試してみた。

」だったので、僕はすぐさま大学のサークルを探した。大学生たるものサークルに入らなければいけないという思いもあったが、少しでも知らない人との交流を増やしたいと思ったからだ。気づいた頃には、3~4個のサークルに所属していた。

」だったので、いろいろな人と1対1で話す機会を設けた。高尚なことをしているかのような文面だが、一言でいえば「デート」である。僕は「コミュ障」であったが、女性に対しては特に、その本領を発揮していた。だから、それを克服したいと思った。そこで、僕は(人としては最低かもしれないが)、大学のサークルやクラスが一緒だったり、単に同じ授業を取っていただけの女の子をとにかくご飯に誘った。時には(見境ないかもしれないが)高校のクラスが一緒だった女の子をご飯に誘ったりもした。逃げも隠れもできない状況を作り出して、ひたすらに『会話』の場数を踏んでいった。

つまり、「」だったからこそ、行動を起こすことができたのである。「」でさえあれば、重い腰を上げて行動する必要なんてない。そもそも、腰が軽いのである。思い立った時に、あれこれ考える必要もないから即行動することができる。即行動ができれば、その行動が早いペースでどんどん積み重なっていく行動が早いペースで積み重なれば、あっという間に人は変われるのである

そう、「」であれば、自分のなりたい自分に変われるのだ


「暇」であり続ける

僕は、今までのおよそ1年間、幸か不幸か「」であり続けた。その結果として、今の自分がある。昔はあんなにコンプレックスまみれで、自分のことなんか好きになれなかったけれど、今は違う。自分に自信がある余裕がある。そして、自分のことが好きである

ここまで、僕が「」によって「『コミュ障』と戦うため」の行動力を与えられた話を書いてきたが、「」が僕を変えたのは、決してそれだけではない。

僕がYouTubeに動画投稿をするようになったのも「」であったからだし、僕が今、こうやって『note』にとりとめもない記事を書いているのも「」であるからだ。

僕はこれからも「」でありたい。でもそれは、決して「一生働かずにニートとして生きていきたい」と言っているわけではない。ただ、「心に少しでも余裕を持って生きていきたい」という意味である。

」があれば、物事を受け入れる余裕も作れる。「」があれば、いざという時に即行動することができる。「」があれば、自分の人生をどこまでも良くすることができる。僕はそう考えている。

僕はこれからも「」であり続けたい。

だから、たくさん友達を作ろうとするのはやめたサークルもほぼやめた頼まれた仕事もやめたたくさんの人と付き合い続けるのもやめた自分のやりたくないアルバイトを続けるのもやめたスマホゲームもやめたモノをたくさん持つのもやめた

そして僕は、やりたいことだけをやることにした。

だから、動画投稿をするnoteも投稿する少しの友達とたくさん連絡をとる彼女ともたくさん連絡をとるごはんも行く新しいアルバイトを始めた新しい習慣も始めた

」を持てば、新しい人生のサイクルが回り始める。「」があれば、どこまでも回していけるのだ。

では、もう一度質問をしよう。


あなたは「暇」だろうか?


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