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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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読書記録2024年1月〜

読んだ本の感想2024年1月〜

1/27/24
岡本仁『また果てしのない本の話』
読みたい本が増える。とりあえずブローティガン『芝生の復讐』を読もう。そして島本脩二が編集した『日本国憲法』も読みたい。無人島プロダクションで見た展示で矢沢永吉『成りあがり』を彼が手がけたことや写真を篠山紀信が撮っていたこと知った。『また果てしのない本の話』は、人はなぜ歳を取ると歴史のことばかり言うようになるのか?という問いに対して明快に答える。そしてNoritakeの挿画はデジタルかと思いきやペンで輪郭を描き塗りつぶしたもの。一本の線は地道な行為の積み重ねであり、読書もそうであるという呼応。


p153
若い頃に、人間はどうして歳を取ると歴史のことばかり言うようになるのだろうかと、不思議に思っていたし、自分は年寄りになってもそうならないつもりだった。でも、自分が生きてきた時代とは何だったのかを考える時は、きっと誰にでもやってくるのだろう。その時に、その時代がどうしてそうなったのか、それより前の時代を知ることで思考はより深くなる。ぼくは、いま過去が気になるのは、未来について自分の頭で考えることと同じだと思っている。

2/4/24
『沖縄の生活史』監修:石原昌家、岸政彦
年明け黙々と読み続け、ついに読了。想像を絶する戦争体験と貧困と、読んでいて辛くなることが多かったが、最後まで読んで良かった。そのときそのときで心に残る言葉がある。今日は、初めて雪を見た時、ホコリが降ってきたのかと思った、という人の話。ホコリだなんて、雪がきれいなもの、という先入観もなにもない状態で見たらそう思うのかな。いいな。

2/16/24
ブローティガン『芝生の復讐』
お友達から借りたブローティガン『芝生の復讐』読了。『愛のゆくえ』は原題がThe Abortionだったがこの作品はそのままRevenge of the lawnだ。タイトルのとおり擬人化した風景が主語になる場面でいろいろ面食らう。川が自慢ばかりしていて魚ですらうんざりしている、といったような調子で、おもしろい。子どものころ紙芝居コンテストというのがクラスであり、その時に野菜たちが大戦争する話を作ったのを思い出した。

3/4/24
ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』
『掃除婦のための手引き書』と同じ短編集に収められたものだったようだ。まるで異なる本のような印象がある。これは濃厚なダークチョコレートのような感じ?ひとつひとつが長く、『掃除婦』は切れ味がある短さ。『掃除婦』のほうがわたしは好きだったかな。

4/28/24
宮本常一「山に生きる人びと」(1964)
山岳地帯で狩猟や焼畑をしながら移動生活していた人々の歴史。平地水田耕作定住民との比較で語られる、越境し移動しながら文化や習慣が地方に伝わっていく速度は人の歩みから牛馬の歩く速さになり鉄道が走って徐々に平均化され廃れていったりする。「忘れられた日本人」のような派手さは無いがふむふむと思うところあり。

4/30/24
藤本和子『イリノイ遠景近景』
読み始めて初っ端からおもしろい。語られる内容ばかりでなく、言葉の選択が、その時代に海外に住んでいたことにより無意識に保存されたような、明らかに今の人には無い感じが新鮮。例えば「見上げたものだが」という言い回し。今なら上から目線と批判されるかもしれないけれど、これは全くそんな意味では無い。

5/4/24
ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』
翻訳者の小竹由美子さんよりプレゼントしていただいた。150年間くらい駆け抜けるドタバタ。ひたすら盛りだくさんで宗教など難しいテーマも笑いに収束していく。骨太でも軽快、上下巻ひと息に読んだ。たくさんの登場人物たちを不思議とひとりも忘れずに覚えていられる小説だった。

5/5/24
サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』
昔読んで内容覚えていたのはバナナフィッシュとエズメだけで、他は初めて読むように読んだ。『エスキモーとの戦争前夜』の良さに気づいた。

6/6/24
リカルド・アドルフォ『死んでから俺にはいろんなことがあった』
インセプションのような悪夢か現実かわからない描写。でも終わり方はちょっとのん気で、悲劇では無い気がした。こんなに気分がコロコロ変わる主人公みたいな人が現実にいたら嫌だな〜。関わりたく無い。でも、移民として外国に暮らしたことあるから、こちらが動揺するほどわかる!と思う瞬間が結構あった。

6/10/24
柴崎友香『百年と一日』
固有名詞、感情の動きの描写などがあまりない、まるでホラーのような雰囲気もある短いお話が連なるのだが、どれもこれもおそろしく直接的に心の奥に触れられるようで、ずっしりと残り、夢中で読んでしまった。素晴らしい読書体験、というか読書を超えた体験をした。これは繰り返し読む一冊になるだろうな。

6/24/24
金原ひとみ『ナチュラルボーンチキン』
オーディブル先行で発表された新作。作者ポートレート撮影の依頼を受け、撮影の前に読んだ。おもしろいのであっという間に読んでしまう。この小説がひとことひとこと誠実に作られていることに救われた気分になった。

6/27/24
滝口悠生『水平線』
印刷されたフィクションと読んでる自分の隙間にすうっと何度もそのどちらでもない何かがひんやりと入り込んでくる瞬間をなども味わってしまった。すごいなー、すごいよ、すごい体験。この本みんな読んでほしい。

7/9/24
藤本和子『砂漠の教室』
不妊治療と中絶体験を綴った文章と、自ら作った中近東料理のレシピが同じ本の中にあり、1977年のイスラエルの様子が描かれた文章から当時の風景を想像する。読むのに難儀したり、スイスイ進んだり、自分にとっては波があった。

7/18/24
ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』
辛い人の人生が辛い短編集。映画を撮り自分で脚本監督出演もする人だということを知った。2005年のカンヌカメラドールをとった『君とボクの虹色の世界』を見たい。

7/27/24
リディア•デイヴィス『分解する』
うつらうつらしながら読む。文章に意識が集中できない時がある。

8/5/24
濱口竜介『他なる映画と I』
講演や講義の内容をまとめたもの。これにとりあげられている映画を少しずつ見ようと思ってレンタルするようになった。昔映画館で見たことがあるのに内容を忘れている映画が多い。この本によって、自分がいかに普段から動画に興味を持っていないかを自覚した。映画におけるカメラの動きなど、ほとんど意識したことがない。おかげでカメラワークという視点からも映画を見るようになった。

8/8/24
向坂くじら『いなくなくならなくならないで』
子どもの頃の距離感が密接で乱暴な遊び方や約束などを思い出したり。黒歴史なんて呼ばない。若い人じゃないと書けない話のような気がする、というのは、子どもの頃の心情をまだ肌感覚で覚えているくらいの、幼年期から遠くない人、という意味で。

8/13/24
向坂くじら『夫婦間における愛の適温』
「いちばんふつうの家のカレーが好きなんだよね」という章が良かった。このカレーを参考に作りたい。

新潮9月号 アリス•マンロー『女の子と女たちの生き方/エピローグ フォトグラファー』、訳•解説 小竹由美子『追悼 アリス•マンロー/これからマンローをどう読むか』読了。『女の子と…』は事件以前に書かれたものだということに驚く。なんと予言的な話なのか。重い。

8/17/24
村上春樹『女のいない男たち』
映画『ドライブ・マイ・カー』を先に見ていたせいか、予想よりもだいぶイライラせずに読めた。高槻の言葉がそのまま映画のセリフに使われているんだな。話が全部どこかでお互いに干渉しあって全体でひとつになっているような短編集だ。青山のバーを舞台にした『木野』が最も恐ろしくて好きだ。

8/22/24
柴崎友香『あらゆることは今起こる』
ADHD(注意欠如多動症)を含む発達障害には様々なパターンがあり、作者の場合は脳内ワーキングメモリーが多いのに処理速度が遅い、つまり頭の中で多くのことを考えているとフリーズしてしまうそう。なにかひとつのことをすると疲れて1時間は昼寝してしまうというのは、おそらくADHDではないわたしも同じ。昼寝は大事だね。働き方や規範が厳しく、それにきっちり従うことを要求する社会では発達障害で苦しむことも多いだろうが、規範が緩やかなら障害と気づかずに生活していくことも可能なのかもしれない、と語る。勉強になり、かつ飄々とおかしさがあって読みやすい。ひと昔まえの男女差別的な習慣について書かれた部分など、同世代ゆえ、わかるわかる!と思った。

8/28/24
岸政彦・柴崎友香『大阪』
大阪へ移り住んだ岸さんと、大阪で育って出て行った柴崎さん、ともに大阪が好きで、こんなに愛する街があるというのは羨ましい気がした。私はこれまで住んだどの土地も、楽しんでいるが、心から愛したことがない気がする。

9/15/24
中村佑子『わたしが誰かわからない』
ヤングケアラーは自分の苦労など本当の苦労してる人に比べれば大したことないから当事者ではないのではないか?という引け目を感じている、人の心を先回りして察して気遣う、など、なるほど、と思う。抽象性とドキュメントと私小説の融合のような本だった。

p156ケアをうまく成就できるということは、病気の家族に反応するすばやい共振性を有しているということであり、それは外界に対してあまりに無防備であるともいえる。つまりケアを成就できる主体というのは、あらかじめ固まることを禁じられ、環境によって変化する可塑性を持っているということではないか。」
p214 「と、ここで気づく。そうか、自己消滅と自己保存がここでも働いているのかと。
自己の輪郭は、溶け出し、開いている。誰かのために行動しても、やはり開いているのではないか。

9/24/24
武田泰淳『新・東海道五十三次』(1969)
東名高速道路ができる前、妻の百合子が運転する車で東京から京都まで東海道五十三次を辿る毎日新聞連載のエッセー(小説?)。武田泰淳の作品を初めて読んだ。免許がなくアル中の泰淳が助手席でひたすらビールを飲んでいるだけなのには閉口するが、戦前を知る世代の歴史話や、今は全く変わったであろう当時の風景風俗の描写が新鮮。ムカつきつつも独特のグルーヴ感に最後まで割とスイスイ読んだ。結果、武田百合子の著作を読みたくなった。「豊橋市には電車が走っていた。味もそっけもない話であるが、ともかく電車というものが走っていた。」という文章に笑う。

p206
庄内川、川、鍋田川、長良川をわたり、彼女はスピードを増す。夕暮れになると、河原も峠も坂も家並も並木も、広重の画にそっくりになってくる。現代的な設備がすべて、うすくらがりに消えて、街道の原形が夕焼け空にうかびあがる。

9/27/24
小野和子『忘れられない日本人ーー民話を語る人たち』
記述された方言を読む時に地元の言葉だと脳内でスムーズに音声変換されるものだ。『あいたくて ききたくて 旅にでる』も素晴らしかった。手もとにずっと置いておく。南方の歴史民族資料館、花菖蒲の郷(さと)公園の設立に尽力した永浦誠喜さんが残した250あまりの民話、記録映像を見てみたい。

子のない爺と姿は、失った子どもをしのんで、たった二人で、人里はなれた山奥で毬をついて遊ぶのか。
そうでなかったとしたら、爺と婆は子どもが授からないまま年老いて、村落共同体から離れて暮らすととを余儀なくされたのだろうか。人里離れた山奥の谷あいで、授からなかった子どもを思って毬をつき、ひっそりと暮らしているというのだろうか。
どちらにしても、「子ども」という存在をしのばせる「毬」でありました。
 その毬が通りすがりの雑魚釣りの男の手に渡って、男はそれを使って、「毬ついて、お金もらって歩いたったづおんや」と、妥協のない非情さのまま、「どんとはれ」と結末されているのも胸に迫りました。
あとになって知りましたが、老夫婦がうたっていたこの唄は福島地方では「身売り」の唄として知られて、ひそかにうたわれるものであったというのです。
 民話は、ものすごく切実な現実を背負いながら、その重みに耐えて生き抜くために、人々の胸のうちにつくられたもうひとつの世界なのではないかこれまでも折に触れてわたしは語る人たちから、それを教えられてきました。

9/30/24
郡司ペギオ幸夫『やってくる』
表紙に描かれた木の幹が、つい一昨日見たばかりの下諏訪神社の御柱と知り、偶然の一致に震える。前縁の神(山の神など)は目に見えない存在で恐れられ、境界の神(里山の神、八百万の神)や物質化されて人を見守る存在、とか、おもしろい。

p219
本書の目的は、何でも比較可能で数値化可能とする、等質化を前提とした思想、すなわち「人工知能の思想」に対抗し、外部から「やってくる」ことを全面展開することです。

p249
しかし私たちは、思考し、想像し、夢想することに現実の参入を許し、想定されるものの外部をむしろ積極的に参与させる世界を生きているのではないでしょうか。
だからこそ、仮想的に造形された小説の登場人物の絶望や死を悲しみ、ハッピーエンドを自分のことのように喜べる。

p255
世界にあるものを知覚するとは、「あるものではない可能性に開かれながらあるものと判別する」ことです。逆に、そういった留保のない判別は、閉じた一人よがりの決定にすぎず、世界と向き合う知覚になっていません。かくして外部を排除することは、知覚の核心を取り逃がすことになるのです。

10/4/24
デザイナーの佐々木暁さんが函館に引っ越し、この小説の装丁を改めて手掛けたとの連絡が、短いエッセイと共に郵送で届いた。佐々木さんがなぜ、上京以来ほとんど戻ることのなかった生まれ故郷へ引っ越して暮らすことになったかを綴った文章は率直で、まっすぐ訴えかけてきた。そして佐藤泰志『もうひとつの朝』初期作品集を読んでみることに。男2人女1人の双方向三角関係など、若さの中に鬱々と貯められたものが思わず吹き出してくるような、70年から80年頃までに書かれた短編群は函館を舞台にしている。風景描写が多いわけではないのだが、文章からなぜか長谷川和彦『青春の殺人者』のような映像が浮かび脳内に流れる。まだシャワーなど一般的ではなかった時代の人間の汗や匂い、テカテカした肌を感じる。あとがきで、この人が『きみの鳥はうたえる』を書いたのだと初めて知り、漠然とした点がつながって一本になったように納得した。これも読まねばならない。

10/8/24
柴崎友香『続きと始まり』
95年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、コロナ禍をまたいで未来へ続く話。まず、コロナ禍というあれだけ大きな出来事の肌感覚を、かくもすっぽり忘れているものなのか、と読みながら思う。小説では3組の話が交互に語られ、最後に10年前で交錯。女だから悔しい思いをしたことに徐々に気付いたり、親が暴力を見て見ぬ振りしていたり、その自分も同級生に心無い言葉を浴びせていたことに気付いたり、誰もが加害者であり被害者である状況。じわじわとくる。過程が何も端折らずに書かれていて、単純な表現で身も蓋もないが、解像度すげー!と思ってしまう。

10/14/24
千葉雅也『センスの哲学』
意味や物語ではなくリズムとうねりを見ること 反復と差異 偶然とどう向き合うかが個性になる 全芸術と生活はつながっているものと捉える などなど 

p168 
絵画や音楽でも、インテリアやファッションでも、要素を並べる=リズムを作ることだと言えるわけで、ある並び=リズムを鑑賞する/作ることが大きな捉え方での「全芸術論」になります。
美術とは映画とはこうであるべきだという、個別ジャンルの「規範」に従って考えるーマニアはそういう態度で意地悪なことを言いがちですがーのではなく、全芸術という広々とした見方を提案したいのです。すべての芸術はつながっているし、それは生活における食事やインテリアにもつながっているのです。
美術も音楽も、映画も小説も、何かの次に何かが来る、という並びが重なり合った「うねりとビート」である。

p173
差異とは予測誤差であり、予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという側然性が強まっていくと崇高的になる。

p174
偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される

10/17/24
2月にtwililightで開催した写真展で、北里彰久さんのライブを企画した。その際、好きな本を朗読してもらったのだが、彼がピックアップしたのがこの1冊だった。フアン・ルルフォ『燃える平原』短編集。1940年代から50年代にかけて書かれた小説。メキシコの乾いた不毛の土地で繰り返される暴力と貧困のお話は、にっぽんむかしばなしのB面、めでたしめでたしのない世界だが、どこかおとぎ話めいていておもしろかった。

10/26/24
群像2024年10月号の濱口竜介特集
ビクトル・エリセの映画に関する濱口の講演で、「ドキュメンタリーはフィクションのように撮られねばならない、逆もまた然り」とあり、心の中にメモる。「ミツバチのささやき」は私の人生映画ナンバーワンなので、濱口監督と趣味が一致するのは何か嬉しい。DVD買おうかな。

10/27/24
スタニスワフ・レム『ソラリス』(沼野充義 訳)
ポーランドで1961年に書かれた作品と知らずに濱口竜介『SOLARIS』の原作ということで読んだ。意思を持ったゼリー状の海で覆われた惑星ソラリス、赤と青の二つの太陽に照らされる宇宙ステーション、海の中から作り出されては風化していく都市のようなもの、軽石よりも軽い物質がボロボロと崩れ落ちる様子など、SFの風景描写はどちらかというと苦手でつまらなく感じるのだが、この話は大丈夫だった。やはり先に映画を見たからだろう、ほとんどの場面は脳内にイメージを描きやすかった。ソラリスを完全体ではなく子どもっぽい不完全な神と捉える最後の会話がよかった。

10/28/24
芥川龍之介『歯車』(1927)
古井由吉『楽天の日々』を読み始めたらこの作品に触れていたので先に読んだ。芥川の遺作。ずいぶんわかりやすい符牒。わざとらしいと感じてしまうがどうなんだろう。

10/30/24
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(1897)
こういう話だったのか〜、と頷きながら読んだ。ワーニャがセレブリャコーフにピストルぶっぱなしてからもいちおう仲直りし、以前と変わらずワーニャとソーニャが働いてセレブリャコーフに仕送りし続けることになるという展開はよくわからない。やめてしまえばいいのに。だから、最後の「耐えて生きましょう」というソーニャのセリフが入ってこない。ワーニャもソーニャも耐えなくていいよ〜

11/6/24
イプセン現代劇上演台本 毛利三彌訳より『人民の敵』(1882)
訳者の意図で『民衆の敵』ではなく『人民の敵』というタイトルになっている。どんでん返しが3回くらい?温泉の汚染を発見した医師はその公表を阻まれて職を失い人民の敵認定され、家族とアメリカへ逃げることにしたが、結局その土地で理想を追い求めて生きていく決心をする。大統領選の結果が出た今日という日に読んだのは偶然だろうか。『悪は存在しない』を海外で上映した際、観た人たちから「これはイプセンの『民衆の敵』ではないですか?」と問われた濱口監督は、まったく読んだことがなかったという。後から読んでみて、確かにそうだな、と思ったそう。

イプセン現代劇上演台本 毛利三彌訳より『ゆうれい』(訳者が意図的にひらがなにしている)1882年初演。すごいえぐい話。おもしろかった。特に、母と娘2世代にわたって繰り返される不幸に気づいたとき、女主人公が発する「ゆうれい」というセリフはどきっとする。梅毒、近親相姦、浮気、自殺など、あらゆる問題が複雑に入り組んでいる。濱口監督がイプセンで何か映画化するとしたらこの作品だと答えたのがよくわかる気がする。

11/15/24
イプセン現代劇上演台本 毛利三彌訳より『ノーラ、または人形の家』(「人形の家」として知られる戯曲)(1879)。夫から妻にそれ言ったらおしまいよ〜、妻より自分の面目が大切だ!という明らかにNGな発言をしてからの一行、
“ノーラ「(凝視)」”
が良い。百年の恋も冷める感覚。ここからの彼女の行動が早いのは演劇で見たら面白そうだな。



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