記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

相米慎二、ホン・サンス、ヴェンダース

11/15/24
相米慎二『ラブホテル』(1985)
とにかく黒タートルネックの寺田農が女にもてる映画。どしゃぶりの雨や手持ちのワンカット撮影、女に並走する車椅子、突然の花吹雪と大勢のこどもたちなど、印象的なシーンはいろいろあれどストーリーは割とどうでもよかった。

11/16/24
ホン・サンス『Introduction』(2021)
青年が主人公というだけで、この監督の映画としては目新しく感じる。モノクロームで短編が三つ、それぞれの話が最後まで説明されることはないが、繋がっているのがわかる。これまで見た同監督作品の中ではいちばん好きかもしれない。
第一部、冒頭、医師の父が机に向かってお祈りするのはなぜなのかよくわからない。青年は父に会って何を話したのか。そして受付の、青年よりかなり年上に見える女性との関係はなんだったのか。そっと抱き寄せる動作など意味深だ。
第二部、恋人がドイツへ留学し、彼女を追いかけていった青年。ここで彼は彼女に対し、自分の父は守銭奴だと語り、第一部に描かれなかった親子の話し合いはひどい内容だったのだろう、と推測させる。
第三部、青年は第一部で出会った父の友人である俳優に影響され、自らもその道を目指していたことがわかる。そして第二部の恋人と別れたことも。海辺でその恋人と偶然再開し交わされる会話の優しさが夢だった。ホン・サンスの映画で海辺で起こることの半分くらいは夢なのか?でもそれが美しい。

11/17/24
ヴィム・ヴェンダース『666号室』(1982)
ヴェンダースがカンヌ国際映画祭の間に15人の監督へ映画について質問し、その答えが語られる様子を記録した43分のドキュメント映画。監督たちは同じ部屋、同じ画角でひとりで質問に答え、その様子を自分で録音録画する。映画は目に見えないものが映るからいい、と語るゴダール。お金の心配ばかりするスピルバーグ、新しい技術も取り入れて作品を撮ってきたから未来について楽観的なアントニオーニ、フィリピン映画の未来について語ることはフィリピンという国の未来について語ることだ、と不機嫌そうに一言残して去るマイク・デ・レオン、トルコ政府が身柄の引き渡しを求めているため隠れた場所から録音テープを送ったユルマズ・ギュネイなど。短いながら繰り返し見たくなる凝縮された内容。このような40年以上前の記録を今見ることができるのはとても幸運だと思った。そして、これ真似してみよ!とすぐ思う単純なわたし。

ウディ・アレン『ハンナとその姉妹』(1986)
想像以上に古臭い感じがしつつ、話者の声が重なりあっても構うもんかとばかりに繰り出される会話に笑い、呆れた。いかにもニューヨーク的な人々の態度がおかしい。こういう人たちどこかで見たよ。コメディアンとしてのウディ・アレンはおもしろい。80年代ニューヨークの風景はそれだけで郷愁をそそられる。メチャクチャな話なのに最終的にはなんだか癒される映画だった。意識していたわけではないのに偶然にも、サンクスギビングが近づく今の時期に見る映画としてはパーフェクトなのでは、と思う。ありがとうという気持ちに。あとになって調べて分かったことだが、アレンの同僚役はレイヤー姫のキャリー・フィッシャーだった。すごく印象的なハスキーボイスだな、と思いながら見てた。

11/19/24
酒井耕・濱口竜介『うたうひと』(2013)
初めての下高井戸シネマ。東北三部作の第三部。「栗原市の佐藤玲子、登米市の伊藤正子、利府市の佐々木健を語り手に、みやぎ民話の会の小野和子を聞き手に迎えて、伝承の民話語りが記録された」(silent voiceのHPより)。
冒頭、3人の語り手たちか雪深い季節に机を囲み順に民話を話す場面で既に涙がこぼれた。これはダメだ、こういうのを見せられたら。わたしは出身地なので話されている方言すべて理解できるが、字幕がない状態で観客は結構わからないのでは?と不安になる。しかし、それでもよいのだろう。話者に対しカメラが真正面、少し目線より下のあたりに据えられている場面などは明らかにフィクションの撮り方で、「ドキュメンタリーはフィクションのように撮られねばならない」という濱口の公演記録(群像2024年10月号)を思い出す。2013年の映画に残された話者の何名かは鬼籍に入られているだろう。この映画は既に永遠の一部だなあ、と思う。三部作を全部見なきゃ。宮城県民は全員見ろ、見るべきだ、わたしも含めて。
小野和子さんが撮影クルーと一緒に移動の車中で語ったことに大きく大きく頷く。「農村なんて、本当はぐちゃぐちゃしたところなのに、民話なんて、あなたにはきれいなところしか見せてないだけよ、と人に言われたけれど、わたしはそれでもいいと思う、きれいなところだけで。」と。それは私が思っていることと同じだ、と直感する。被写体は自分が見せたいと思っている自分を写真家に見せるだけでいい、全部見せなくていい。

いいなと思ったら応援しよう!