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アレック・ソス、原田裕規の展示を見た
12/26/24
東京都写真美術館 アレック・ソス『部屋についての部屋』
一昨年、葉山の神奈川県立近代美術館でアレック・ソス展を見たときに、アメリカだなあ、と思った。過酷な資本主義の国で貧困や落伍者を見つめ、それでもささやかに愛をはぐくみ生きていかなければならない切実さと、ハードな社会をシニカルに対比させるような表現。アメリカはつらいよ。カサついた肌にどれほどクリームを塗り込んでも潤うことがないように、あるいは、砂漠化した緑地にいくら水を撒いてもすぐ干上がるように殺伐としているが、そこに自由もついてくる国。自由はつらいですよ、それでもいいですか?と常に問われる国。
初期のモノクロ作品に、結婚式の日の自分を撮ったポートレート「Self Portrait on My Wedding Night, Saint Paul, Minnesota」(『Looking for Love』より 1996年)があった 。半ば仰向けに椅子にまっすぐのけぞり、投げやりな疲れた風貌でフラッシュをたいている。晴れやかでめでたいはずの日に撮られた、ささくれだった肖像。このあたりの小さめのモノクロ作品が巨大なプリントより印象に残った。
子どもたちの記念写真が整然と白い壁にかけてある部屋を写した正方形のカラー作品「Untitled 07」(『Dog Days,Bogota』より 2003年)。おめかししてきちんと撮影した写真(※絵画かもしれない、よくわからない)なのだが、それらは不気味だ。ソスが養子を迎えるために滞在した街で撮られたシリーズだという。記念写真は、家族や縁者が見るのでなければその目的が果たされないゆえに意味が失われる。それらは、微妙に下手な、誰か知らない人が写っている写真だ。まるで魂が抜かれたように。この印象は、この後に原田裕規の映像を見て感じたことと偶然にも重なる。
東京都写真美術館『日本の新進作家Vol.21 現在地のまなざし』
大田黒衣美 かんのさゆり 千賀健史 金川晋吾 原田裕規
原田裕規の24時間以上ある3本の映像作品。『写真の山』は、解体された家に残された捨てられる運命にある写真プリントを延々と映し、『One Million Seeings』は、その写真を延々と見続けるパフォーマンスを記録した。暗い部屋で30分ほど見ながらうつらうつらしてきて、ふっと寝てしまった瞬間に目を開けると、そこにはまだ続いている。これは終わらない。終わりまで見届けられることを期待していない。深い孤独。
ロビーに出ると、映像の中で使われたと思われるプリントが机の上にどっさりと積まれていた。自由に触っていいと書いてある。そのためか、観客がちょっといいなと感じたであろう写真が上の方に置かれている。おばあさんが孫を抱いている笑顔の写真、スタジオで撮られたきれいな花嫁の写真などだ。わたしは怖くて恐る恐る触れたが、深く見ることはしなかった。魂が抜かれた残骸が転がっているのを眺めていたら、眺めている自分にその魂が近寄ってくるような心地がした。
展示を見た後でステイトメントを読む。作者は「家族の愛情からも資本主義の論理からも見放された写真の山は、社会の全方位に向けて不満を漏らす呪われた記念碑のように見えた」それでも「無視することができない」と語る。資本主義の論理、というのは、家屋解体の際に売れる写真は選別され、ファウンド・フォトを求めるコレクターや作家向けに売りに出されるからだ。ここにあるのは、売れないと判断され捨てられる予定だった写真である。
長い長い映像は、たとえ観客が見ていなくても消えて無くなるわけではなく、写真たちは映像の中にあり続ける。わたしは、今は誰も住んでいない硫黄島に建てられた戦没者追悼のモニュメントのようだと思う。
ぼくにとって写真は、忘れたくても忘れられないトラウマのようなものに近い。
先ほど、業者の倉庫で写真の山を目にしたときの印象を「呪われた記念碑」と書いたが、その「何か」は、触れることすら不適切なタブーのようなものに感じる。だから、社会から見放された写真を引き取ることも、光を当てることも間違っているのかもしれない。それでもなお、それらを無視することができない。
ある時期から、写真で目にした知らない人が夢に出てくるようになった。こうした写真=イメージは、ぼく自身のコントロールから外れて、勝手に記憶に侵入してきてしまう何かなのだと思う。
その存在感を「アート」という言葉に矮小化することなく、イメージの世界に寄り添うようにして、作品として記録することはできるだろうか?
面白いと思って、著作『とるにたらない美術 ラッセン、心霊写真、レンダリング・ポルノ』を購入した。