Vol.17「『見る目がない』ことを誇れ」
気づけばスキが50を超えてました。ありがとうございます。
さる6月22日、『次にくるマンガ大賞 2018』の投票受付が始まりました。
ノミネートされたのはどれも数多くの話題作。毎回チェックしてるものもあれば、名前だけ知っている作品や全く知らない作品もあり、チェックしているだけでも楽しいです。
そんな中、実は俺も投票受付の前段階、エントリー受付の頃からこぞって作品をエントリーさせておりまして。(作品名は趣味嗜好がバレそうなので伏せておく)
当然、きっちりノミネートされている作品もあれば、残念ながらノミネートを逃した作品もあります。俺は後者の方が多かった人間です。
さて、ここから本題。
漫画雑誌を読んでいると、あらゆる作品の始まりと終わりに遭遇すると思います。何と無く雑誌を眺めていたら自分の琴線に引っかかった作品と出会ったときのときめき、その作品が表紙を飾ったときの高揚感、『アニメ化決定!』の報のさらなる高揚感、『次号、完結!』という煽りがついていたときの絶望感、また、何も前触れもなく『ご愛読ありがとうございました』という煽りとともに終わってしまったときの虚無感は雑誌でなくては味わえないものだと思います。
そして、実力か運、あるいはその両方に恵まれず終わってしまった作品を応援しその終わりを目撃したとき、あなたはどう感じるでしょうか?
「俺の見る目がなかったなあ」でしょうか?
それとも、「わかってないあいつらがセンスのないあいつらが馬鹿なだけなのさ!」(by.斉藤和義)でしょうか?
俺は「きっとこれも自分に眠っている個性なんだ」と思っています。
ただ数の優劣で物事を判断すると単行本の発行部数や巻数で全てを決め「俺が勝ち馬に乗りつづけている人間なんだ」「俺は面白さがわかる人間なんだ」と錯覚してしまうつまらない人間になってしまいます。(もちろん、流行っているから読んでいる人の存在も否定はしませんが)
ここで「見る目がなかった」と否定することは、自分が感じた「面白い」を否定することになってしまい、自分に潜んでいる「個性」を殺すことになります。
「面白かったのに短命だった」そこには何かしらの理由があります。
どこかのnoteで「駄作に学ぶことはない」という文を目にしましたが、それに対して俺は真っ向から否定したいです。
もし、このスカム日記を読んでいる人の中で、何かしらクリエイターを目指している人がいるなら、一度「自分は好きだったのに短命だった作品」をもう一度読み直して、なぜそれが終わってしまったのかを分析してみてください。
そして、その大好きな作品を大切にしてあげてください。
なんか綺麗なこと言ったつもりだが全然まとまってない日記、終わり。