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無題
2023年2月
「ロシア語を学んで、ほう、シベリア鉄道に乗ったご経験も。それはそれは……今では到底想像もつかないことですね。」
「はい、そう思います。」
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2019年9月、成田国際空港からウラジオストクへ飛び、その日の深夜0時59分、モスクワ行きのシベリア鉄道に飛び乗った。
ベッド4つで1部屋の2等寝台。
電車が走り出すまでの30分ほどは空調がついていなかった。シベリアといえど9月はまだ暑く、全く寝付けない。
だいたい1晩ほどで乗っている人は入れ替わる。2日目の昼間、私の斜め下のベッドに、ロシア人の若いお兄さんが乗ってきた。
「やあ。」
「こんにちは。」
「下に降りて、ここへおいでよ。一緒にお茶しよう。」「……お茶?えぇ、ぜひ。」
私はロシア語が堪能ではない、どころかせいぜい元気にご挨拶ができる程度だ。事前にダウンロードしたGoogle翻訳で、スマホの画面を見せ合うことでギリギリ会話が成立する。
車両に備え付けられているサモワールと、各個人に配られるスタカン。ロシア語で書かれた、しかしパッケージは世界中どこでも見られるであろう有名な紅茶のティーバッグを、お兄さんは鞄から取り出した。慣れているのだろう。動作は「いつものこと」だった。
休日、家族が待つ家に帰る道中だそうだ。
「どこまで行くんだ」
「モスクワ。」
「モスクワだ?1週間もかかるじゃないか。お前あれだな、狂ってる。」
そう言いながら、こめかみ辺りに人差し指を向け、くるくると5周ほど回した。
「へへ。そうかもね。」
「それで、どこから来た?」
「イポーニャ。ヤ イポーンカ。」
お兄さんは何やら嬉しそうに私のスマホのGoogle翻訳にロシア語を打ち込んでいる。
「私は日本の〇〇という会社で働いています。機械をつくっている。」
その時は聞いたことがなかったが、ショベルカーの背中に時々社名を見かける会社だった。あの時から、ショベルカーを見かけるといつもどこの会社か、気にしている。
「まだ日本には行ったことがないんだけどさ。日本ってどんなところ?何がある。」
お兄さんは、神社は知っていたけれど、富士山は知らなかった。私の地元(棚田が広がる田舎町)や、日本の旅先の写真をいくつか見せたらたいそう喜んでいた。
代わりにロシアのことを教えてくれた。窓の外を見て、ここはなんとかかんとかだとか
教えてくれた。Googleの日露翻訳は、少し貧弱なところがある。「失われた神々の土地」、そんなものがシベリアのど真ん中にあるというのだろうか。ミステリアスだ。
屈強で強面のお兄さんは、優しかった。
夜、お兄さんは電車が停まるとホームへたばこを吸いに出る。私が目を覚ますと、「ドアは開けておくか、閉めた方がいいか」と聞いた。
私が「閉めて」と答えると、
優しく閉めて出ていった。
翌日、お兄さんは列車を降りた。2回ほどお茶を一緒に飲んで、残ったティーバッグは箱ごと私にくれた。滞在中に飲みきれなくて、結局私はそのティーバッグを日本にまで持ち帰って、しばらく飲んでいた。
お互いに、何もすることがない鉄道旅での、偶然の暇つぶしだった。今、変わらずシベリアの工場で働き、休みになるとシベリア鉄道に乗って家族の元へ帰る生活を送っているのだろうか。それとも、そうではなくなってしまっているだろうか。
何も知る術はない、知る由もない、ただ少なくとも今後数年は私がロシアへ行くこともなく、そのお兄さんが日本に来ることもない。
時々ふとあのたった1日の巡り合せを思い出し、二度と重ならないであろう現実に、嫌な汗と目の奥に仄かな暗さを感じる。
私たち2人がたった数時間、機械を介して言葉を交わしただけでは、世界は何も変わることがなかったのだろうか。
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2023年3月
ロシア語を学び続けている。
最近ウクライナ語を始めた。
英語は仕事でも使っている。
中国語は、忘れているかもしれないが、
きっと思い出せる。
ドイツ語やフランス語は、
旅行でさほど困ることはなかった。
イディッシュ語を半年習い、
ヘブライ文字が読めるようになった。
いつか行ってみたいから、
トルコ語をかじったこともある。
文前大統領が対話型の本屋を始めようとしていると聞き、韓国語を文字から学び始めた。
エストニアには2度行った。エストニア人の「お互い厄介な隣人を抱えた、ひとつの国を挟んだご近所同士だな!」というジョークは、すべてを染め上げる黒さだった。現地では英語と、お好みであればロシア語も、問題なく通じる。なんとなく、帰国後から、少しずつエストニア語を学んでいる。
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言語を学んだモチベーションは悔しさであり、誰かと自分の言葉で話せるようになりたいという手段的な目的があった。
学ぶうちに、言語を手段として、道具としてのみ切り離すことは不可能だと感じた。言語は、その言葉が使われる国や地域の歴史、文化、人々の暮らしと密接に結びつく。
言語を学ぶことで少しそれを知れるのではないかと、学ぶ言語の数も増えていった。
言語に触れることで、知れることが広く、
また深くなるということは、事実だ。
同時に、言語にはアイデンティや民族としての尊厳にまで結びつくものであるからこそ、にも関わらず全ての言語をひとりの人間が習得することは不可能に近いからこそ、グロテスクな側面がある。
和解や調和を目指せる強い手段となるのと
同時に、強い暴力性を持っていると思う。
「英語も中国語も、フランス語もできるんだ!海外の仕事で大活躍だね!」
中学生の時からずっと、それを目指してきた。もう10年、当然だと思う。
言う側はもちろんプラスの意味しかないし、
仕事で大活躍なのは、それは事実だ。
英語、中国語、フランス語、ロシア語、日本語が(ものによっては本当に少しであっても、)できたら、世界の半分以上の人間と何かしらの会話ができてしまう。
お互いにわけの分からない母国語同士をぶつけるよりよっぽどちゃんと会話になり、世界の問題が解決されるような何かいいことがあるかもしれない。いや、せめてそうであってくれなければ、やってられない。
拙い現地語を話されるより、意味がわかってイライラしないから英語で話してくれということもあるだろう。実際フランスやドイツで何度かお店の人に言われている。
言語を学ぶほど、深い森に迷い込んでいるような気持ちになる。常に学ぶ言語を増やし、それぞれの言語圏への、友好的な態度や興味関心を示している。
自分の思いを直接言葉で伝えられることは増えた。伝えられる人数も増えたし、内容も増えた。それと比例するように、諦めや自分に対する失望も増えた。無力さも感じる。
全ての言語を習得することなどはなから不可能なのだから、ひとつでも多くできることの良い面だけを見続けてもいいのかもしれない。
そもそも言語ができたところで、言葉だけでは直接的には何も起こらず、何も変えられないのだから、もっと本質にだけ目を向けていたらいいのかもしれない。
うん、そうかもしれない。
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