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子どもと大人が「まなざし」を借り合う学校/社会をつくりたい
こんにちは、臼井隆志です。ぼくはワークショップデザインを専門に、企業向けの人材育成や組織開発の事業をしているかたわら、アートと子どもに関わるワークショップの企画を仕事にしています。
先日、一緒に仕事をしているアート系のプロデューサーに「臼井さんのゴールはどこなの?」と聞かれました。そのときとっさに「学校なのかアートセンターなのかわからないけど、いろんな子どもといろんな大人が学び合っているような建物をつくりたいんですよ」と答えました。
日頃から温めていた気持ちではあったのですが、ふと口にして恥ずかしい気持ちになりました。しかし、その方から「私も似たようなこと思ってるかも」と言われました。お互いに似たビジョンを持っていることがわかり、その方との仕事の意義がグッと深まったのを感じました。
やりたいことやこんな社会になったらいいなぁ、ということをかたるのは勇気が要ります。「実現にまっすぐ向かっているわけじゃないから」「自分なんて専門じゃないから」と言い訳することもできます。でも、いざ語ってみると共感して仲間になってくれる人がいるものです。それが真摯に願っているものならば。
「芸術家よ、語るな、つくれ」というのはゲーテの言葉ですが、語ることから新しく始めることもできると思います。語ることも、思いに輪郭を与える「つくる」行為だと考えれば、十分創造的なんじゃないかと、なかば言い訳を考えながら、今日は夢を語ろうと思います。
子どもが大人の「横顔」を見て、「葛藤」にふれる場
ぼくがいつかつくりたい建物は、「学校」のような場所に、いろんな働く大人がいて、子どもが仕事に参加できるような場所です。子どもと大人がともに楽しみながら仕事をするようなことが当たり前の社会になったらいいなぁと思っています。
ぼくが夢見ているのは、子どもがいろんな大人の「横顔」を見ることができる場です。
子どもの頃のことを思い出してください。ぼくたちはほとんどの場合、大人の「正面」の顔を見ていました。
先生は教卓の前に立って我々に「先生」としての顔を見せます。テレビの向こうでは芸能人やスポーツ選手がメディア用の顔をしています。八百屋で野菜を買っても、おもちゃ屋でおもちゃを買っても、店員さんは「店員」としての顔を見せています。今の子どもたちは、ここにYouTuberが加わっていると思います。
「正面」の顔は、はっきりとぼくたちに向けて情報や商品を提供していました。生産者/提供者としての大人がいて、消費者/受給者としての子どもがいるという構図がはっきりします。
しかし、大人になってみてわかることですが、子どもに向けた「正面」の顔の裏には、さまざまな悩みや葛藤、あるいは商品や情報をつくる楽しみがあります。そのような舞台裏で見せる大人の「横顔」は、ぼくたち子どもをハッとさせるものがあります。
たとえば、アーティストの創作現場や、デザイナーの仕事場では、大人の葛藤や創造の場に立ち会うことができます。あるいはもっと身近に、親と映画を見ている時に「このシーンを見てどう感じているんだろう?」と横顔をチラ見してしまうときなども、普段とは違う一面を垣間見たりしますよね。
こんな体験ができる建物をつくって運営することができたら、とてもおもしろそうだよなぁ、大変だけど・・・と常日頃思っています。
大人の「横顔」を見て学んだ原体験
こんなふうにぼくが「大人の横顔を見ながら学べる場」を夢想するようになったきっかけは、小学生の頃にさかのぼります。
ぼくは、子どもの頃から「学校」というものに居心地の悪さを覚えていました。落ち着きがなく授業中に座っていられず、いつも後ろや横をキョロキョロしたり、必要ないのに道具箱をいじくりまわすような子だったので、常に先生にマークされ、クラスメイトからも変な奴扱いされていたように思います。
たしか小学校4年生頃だったと思います。家の近所に児童劇団の稽古場兼劇場があり、子ども向けのワークショップを開催していました。親に連れられて何度か演目を観たことがある劇団だったので、友人を誘って参加してみました。
「一泊2日で子どもだけで演劇をつくる」というそのプログラムでは劇団員の方々が僕たち子どもの創作を手伝ってくれました。
当時「名探偵コナン」が流行り始めていた頃だったので、「殺人事件を題材にしたい」とか「タバコを吸う演技をしたい」とか、いろいろと要望を言っていたら、劇団員の方が「いいね」「それやろう」と取り入れてくれ、どんどんと物語ができ、同じグループになった子たちとふざけながら練習しているうちに、10分ぐらいの短い演劇ができあがりました。
子ども同士仲良くなることや、他の人がつくった作品をみることももちろん楽しかったのですが、最も印象に残っているのは、ぼくたちのアイデアを引き出し、まとめていってくれた俳優さんたちの関わり方でした。
彼らの関わり方は、親や学校の先生の関わり方とは異なっていました。意見の良し悪しを判断するのではなく、問いかけ、一緒に悩み、提案をしてくれていたのを覚えています。
それは、正面から向きあうのではなく、横から寄り添うような関わり方でした。彼らのまなざしは、ぼくたちの行動や意見の良し悪しではなく、一緒に作っている作品に向かっていました。彼ら大人は僕たちをみながらその先に演劇を見てつめていたし、ぼくたちはそんな彼らの横顔とその「まなざし」を見ていました。
「こんな関わり方をしてくれる大人もいるのだ」ということを知りました。この経験に勇気づけられて学校生活を乗り越えることができたように思います。「学校や放課後の場がいつもこんなふうだったらいいなあ」と妄想していたのを覚えています。
今思えば、これがぼくのワークショップの原体験でした。そして、ぼくがつくりたいと言っている「建物」とは、あの劇団の稽古場のようなものなのです。
子どもが大人の「まなざし」を借りる
小学生の頃にぼくが体験したのは、演劇のまさしく「舞台裏」であり、劇団員の人たちの「まなざし」でした。
その「まなざし」は、ぼくたちの存在そのものではなく、アイデアが組み合わさった先にある作品を見据えていました。彼らは演劇をつくるという仕事をぼくたちと楽しみを共有しながらやってくれたのです。
この「まなざし」はワークショップにおいて非常に重要な意味を持ちます。
ワークショップとは「日常とは異なるまなざしから対象を見つめ、コラボレーションを通して学び、創造する場」です。
小4の頃に体験したワークショップでは、日常の経験を「演劇を創作する」という「まなざし」で見つめました。具体的には「名探偵コナン」というコンテンツを消費している経験を分解して、他の要素を混ぜ合わせながら演劇として再構築しました。その過程で、子どもたちや劇団員とコラボレーションし、お互いのまなざしや考え方を学びながら創作をしていたと言えます。
ここで「演劇を創作する」という「まなざし」を強く持っていたのは、ほかでもない劇団員の人たちでした。ぼくたち参加者はほとんど無意識に、彼らの創作に向かうまなざしを借りながらこのワークショップを体験していたのでした。
大人が子どもの「まなざし」を借りる
一方で、彼ら劇団員の人たちにとってこのワークショップはただの子ども向けのサービスだったのか?というと、そうではないはずです。
劇団員のみなさんも、子どもの「まなざし」から学ぶものはあったでしょう。演劇の創作を通して、漫画やテレビ番組といったコンテンツを含め、子どもたちがどのように世界を体験しているのかを、子どもの「まなざし」を借りて学んでいたはずです。
また、遊ぶように演劇を作る子どもたちの様子は、つくることと楽しむことが不可分であることを思い起こさせるかもしれません。大人は、遊ぶ子どもの姿に感化され、学ぶこともあると思います。
ワークショップでは、子どもが大人のまなざしを借りるだけでなく、大人が子どものまなざしを借りることで、学び合う関係性をつくることができます。その可能性をつきつめ、実現するには、イベントだけではなく「建物」をつくることが有効だと思うのです。
子どもと大人がまなざしを借り合う学校/社会へ
大人が葛藤したり楽しんだりしながら仕事をする様子を見ながら、時に参加しながら、子どもたちが働く/つくるということを体験できるような学びの場をつくりたい。そういうことがいろんな場所でおこる社会になったらいいなと思っています。
この実現に向けてすこしずつ、これからぼくも実験的なワークショップを実施していく予定です。
方法論がみえてきたら、演劇にも、美術にも、デザインにも、料理にも応用していきたいです。劇作家、美術家、デザイナー、料理家の仕事に子どもが参加する機会をつくりたい。保育園でアーティストが作品をつくっているとか、学校でデザイナーが仕事をしているとか、そういう風景を思い描いています。
こうしたクリエイターの仕事に子どもが参加する機会が、あたらしい「教科」になって、その大人の横顔をみながら学べる場所が、2020年以降の新しい「学校」の姿になったらいいなと思っています。
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