中山道太田宿で約15年、コーヒー店とアート活動を続けてきたふたりが見据える、まちのこの先|地域のイノベーター見聞録〈美濃加茂版〉Vol. 2 篠田康雄・小川友美/コクウ珈琲・NPO法人 きそがわ日和
はじめに
2023年8月5日(土)木曽川緑地ライン公園で夏の花火大会「おん祭」が開催されました。例年3万人超の見物客が訪れる、美濃加茂最大のお祭りです。
「おん祭」開催地の河川敷から一本北側の道へ入ると、旧中山道太田宿があります。私が4月に美濃加茂に越してきた日は、太田宿周辺に店を構える9店舗の合同展示「MARGINALIA」(下記フライヤー参照)が開催中でした。どんなイベントなのだろう? と歩いてみると、目を引くアートギャラリーがあり、物販店舗でも作品の展示が行われているし、喫茶店は店内全体がインスタレーション空間と化していました。「なんだこれ?! 美濃加茂はアートが盛んなまちなのだろうか」と、初めて太田宿を訪れた私は、その日その場所におけるまちとアートとの密接さに驚きました。そして、それがコクウ珈琲を初めて知ったタイミングでもありました。
前回のカレーショップ「らんびー」の高木さんへのインタビューで、2009年より中山道太田宿に店を構えるコクウ珈琲の存在について触れました。マスターの篠田康雄さんは妻である小川友美さんや有志の方々とともに、「きそがわ日和」という地域にアート文化を根付かせることを目的とした活動(2016年よりNPO法人化)を2010年より行ってきました。
喫茶店とアート普及活動。その両方を美濃加茂で10年以上続けた今、篠田さん・小川さんのおふたりはこのまちをどう見ているのでしょうか。らんびーの高木さんを聞き手に迎え、詳しく伺いました。(小野寺/編集部)
自分が良いと思ったものを提供したい、そんなマインドを持った人びとが集まるまち
高木
僕はもともと地元の美濃加茂でカレーショップをやろうと考えていましたが、今の店舗の場所を決めるにあたっては、中山道エリアで10年以上商売をされているコクウ珈琲の影響が大きくありました。実際に、コクウ珈琲を追いかけるように中山道ではこの10年間でたくさんの新しいお店がオープンしています。そもそもどうして美濃加茂に? など色々とお聞きしたいことがあるのですが……その前に、篠田さんも30代で自分のお店をオープンされたということで、篠田さんがどのような20代を過ごしてきたのかが、個人的に気になります。
篠田
私の20代は……シンプルに言うとすごく怠け者だったんですよ。大学にもろくに行かずに朝からパチンコ、夜はビデオ屋でバイト、夜中も遊んでばかりでした。妻の小川さんと知り合ったのもそのビデオ屋でしたね。自分がコーヒーを始めた理由も決して前向きではないんですよ。ダラダラとした生活を続けるわけにもいかなくなって、じゃあ食っていくために仕事をするならと思いついたのがコーヒーだった。まったく素敵な話じゃないんですよ。
なんでコーヒーなのかというと、私は愛知県一宮市、小川さんは小牧市、どちらも尾張地方の出身で、尾張は繊維業が盛んだった地域ですよね。自動織機ってガチャガチャと布を織る音がうるさいから事務所で話ができない。だから喫茶店に行って商談するんです。諸説ありますが、そこから喫茶文化が発展していったと言われています。われわれ団塊ジュニア世代くらいまでは喫茶店は生活の一部だって感覚がまだ染み付いていて、私も昔から家族で喫茶店によく行っていたし身近な存在なんですよ。結局、ダラダラとした生活を送っている頃も、マスターがひとりでやっているコーヒー屋さんに足繁く通うようになっていました。それがコーヒーをやろうと思ったきっかけだったのかな。まずはいわゆるコーヒー専門店で働き始めて、7年くらい勤めましたね。
小川
私としては早く彼に独立してほしかったんですが、ずるずると20代はずっとそこで働いていましたね。それで、今度こそ! と西尾市のお師匠さんのもとで焙煎の勉強を始めるんですけど、勉強期間は無収入になってしまうので、スターバックスでアルバイトをし始めたんですよ。最初は半年程度と言っていたんですけど……
高木
今の篠田さんからは想像がつかないですね。
篠田
結局、焙煎の勉強とスタバでのバイト生活が3年ほど続きました。クリスマスには赤いTシャツとサンタ帽を被ってね、楽しくやっていましたよ。スターバックスって店員さんもみんなキラキラしているし、楽しそうな雰囲気を醸し出ているじゃないですか。全国的にチェーン展開している飲食店で、そんなお店ってあまりないですよね。その裏側が気になって入ってみたら、やっぱり楽しかった(笑)。
小川
修行期間なのにやけに楽しそうだし、いつまでフリーターしてるのよと思う時もありましたが、本人としてはお店の仕組みについて色々と知れて良かったみたいですね。
篠田
今振り返ってみると、私にはスターバックスみたいな商売は難しいんだってことを学べたんです。コーヒーを商売にしてたくさん売って稼ぐってこういうことなんだと、バイトをしてみてわかった。自分の場合はひとりで店をやるんだから、数を売るにも限界がある。だったら、まずは「自分の美味しいと思うものをお客さんに出す」というのを出発点に商売のかたちを考えてみよう……と、当時は自覚的ではなかったかもしれませんが、そういう思考のプロセスがあったはずで、それがコクウ珈琲に繋がっていると思います。
今、中山道近辺で新しく商売をやっている人たちって、みんな同じ考えなんですよ。高木くんも美味しいカレーを出したいからカレー屋をやっているし、GALLERY crossing (アートギャラリー)やrofmia(レザー製品)も、自分が良いと思うものを信じてやっている。そういう順番で考えて、自分が良いと思うものを出すというスタイルで商売をしている人たちが近くに集まってきてくれたのは喜ばしいことですね。
彫刻のまち、美濃加茂
小野寺
先ほど、お二人は愛知県の出身で美濃加茂は地元ではないと伺いましたが、美濃加茂でお店を始めるきっかけは何だったのでしょうか?
小川
最初に美濃加茂と関わりを持ったのは私の方なんです。2000年にみのかも文化の森(美濃加茂市民ミュージアム)が開館した時に学芸員補佐として仕事をするようになったんですけど、それまでは私たちにとって美濃加茂はまったく知らないまちでした。コクウ珈琲がオープンしたのはその9年後で、その間に私が美濃加茂のまちのことを色々と覚えていったんです。
話が飛んでしまいますが、美濃加茂市って特色がないように思われがちですが、アートのまちなんです。1988〜97年にかけて美濃加茂彫刻シンポジウムが毎年開催されて、国内外から集まった作家が美濃加茂に滞在して作品制作を行っていました。このシンポジウムを主導していたのが美濃加茂青年会議所。今は社長さんになっているような人たち、つまり市民が作家たちを迎えてもてなしたんですね。美濃加茂って、まちのいたるところに彫刻作品があるでしょう。
高木
言われてみれば、確かに。
小野寺
木曽川沿いを歩いていると一定間隔で彫刻作品に出会いますね。
小川
美濃太田駅から北西へ2キロ行ったところにある前平公園や、美濃太田駅前の広場、駅北側の大手町公園など、いっぱい彫刻があるんですよ。今から30年近く前のバブル期のこととはいえ、特に若い世代は美濃加茂が彫刻のまちだと知らないんですよね。前平公園なんて彫刻の上でバーベキューをやる人がいたりして、ひどいありさまで……。
それから、やはり彫刻シンポジウムの頃に美濃太田駅前にオープンした「ギャラリーF」というスペースがありました。1階には「カップチーノ」という喫茶店があって、作家たちが集まるサロンみたいになっていましたね。ギャラリーは20年ほど続いたのですが、2000年代後半に閉じることになった。このスペースが終わってしまうのはもったいない! とその後、美濃加茂彫刻シンポジウムで活動されていた方を説得し「iギャラリー」として引き継いでいただきました。そこで私は2年間ほど運営を任されていました。
たまたま、木曽川の風景に惹かれて
篠田
その頃の自分は、ようやく自分の店を出そうと物件を探している時期でしたね。小川さんが美濃加茂で働いてるからといって、別に美濃加茂でやろうとは思っていませんでした。
小川
そう、とにかくこの人を早く独立させなきゃいけないということで、私は独自に美濃加茂で物件の調査をしていたんですよ。篠田は美濃加茂はあまり視野に入れていなかったようですが。今でこそ、「コクウ珈琲があったから、中山道でお店を始めました」なんて言われることも増えましたけどね……
篠田
そう言っていただけるのは嬉しいです。
小川
だけど若い世代で、いちばん最初にあのエリアに入って商売を始めたのは、WOHL HÜTTE(インテリアデザイン・家具工房、2006年)さんなんです。彼らに開業したい旨を相談したところ、ヒュッテさんの隣が空き家であることを教えていただきました。それで「良いかも、中を見てみようか」ってなったのはいいけれど、最初は大家さんにたどり着くまでが大変でした。今でこそ、高木くんもそうでしたが、うちに物件の相談をしてくれれば「ああ、あそこは○○さんの持ち物だよ」なんて紹介できるくらいになりましたが、当時は誰も教えてくれる人がいなくて大変でしたね。
篠田
私は全然リノベーションとか考えないで、普通のテナントで探そうとしていました。今でもそっちの方がよかったって思うことも、なきにしもあらずですけどね(笑)。
小野寺
テナントにはテナントの良さがあるのですか?
篠田
それだけ大変だったんですもん。ボロくってボロくって……
小川
それは確かにそうでした。当時は、商工会議所に物件の相談をしに行っても、みんな「本当にこんなところでやるの?」みたいな雰囲気がありましたね。かつての太田宿はそれはもう活気があったようで、われわれが入ってきたのは一度衰退した後。まちの開発の中心は駅の北側でしたから、「どうしてここで?」と思われても不思議ではないですね。
そして、ようやくこの物件の大家さんにたどり着いた後も、われわれが地元の人じゃないからか、不安がられている感じがあったかも。まあ、よその人がいきなりこの場所でお店をやるって、当時はなかったですしね。でも結局、今HUT BOOKSTORE(本屋、2021年)がある長屋も、ヒュッテさんも、春にオープンしたばかりのnichica(レストラン・喫茶、2023年)さんも、みんな同じ大家さんの物件を借りていて。そのおばあさんは当時90歳くらいだったのかな。シャキッとしたおばあさんでした。この間亡くなってしまいましたが、100歳近くまでずっと元気にされていましたよ。
篠田
この場所で商売をやっていけるんだって、その姿を見せられてよかったですよ。
小野寺
コクウ珈琲の店舗は、自分たちでリノベーションされたんですか?
小川
空間デザインから家具まで、ヒュッテさんに全面的にお願いしました。だんだんと店舗が完成してきて、最初はいやいや美濃加茂に通っていた篠田も店の裏手にある木曽川を見たらこの土地に惹かれたみたいです。
篠田
高木くんは、もともと地元でやるって決めていたから選択肢が最初から狭まっているけれど、自分の場合は本当にどこでもよかったんです。でも自分みたいな個人商店がいきなり一等地でスタートを切れるわけではなくて、どんどん商売としてはあまり向いていないような土地を探していくことになる。そうすると、最後の決め手になるのはロケーションの雰囲気くらいしかないんですよね。それが私の場合、木曽川の風景でした。せっかく小川さんが「どうだ、ここにしよう」って背中を押してくれたし、川も綺麗だし、ならここで良いか、くらいの感じでしたね。
この通りで、私はそんなに積極的じゃなかったんですよ。そんなに尊敬されるような人じゃない。一方で、高木くんなんかはすごく計画的で凄いなと思います。
突然始まった「きそがわ日和」を続けていく苦しさと楽しさ
小野寺
この辺りはモーニング文化が盛んで喫茶店の数も結構ありますし、ランチ需要も大きいですよね。コクウ珈琲のようなコーヒー一本の専門店ってあまりないですよね?
篠田
いや、やっぱり始めた当初はなかなかお客さんが来ないものだから、早々に私は「モーニングやる!」って言い出しました。でも小川さんにはやるなって言われて、それで「やっぱやめておこう」って思いとどまるというのを繰り返していました。
小川
その時に踏ん張っておかないと目指したお店のかたちが崩れてしまって、もったいない。だから何度も話し合いましたね。でも実際問題食べていけないのは困る……なんとか持ち堪えてというのをひたすら続けていました。
高木
大変な時期を乗り越えて、14年間続けてこられた理由って何でしょうか?好きなだけで続けられるという話でもないと思いますし、やはり自信があったということでしょうか?
篠田
自信はそんなになかった……けれど、美味しいコーヒーを出しているとは思いますよ。でもそれと経営上安定するかどうかは別の話で、5年、いや10年はずっと首の皮一枚みたいな状態で、近所の人たちに来てもらえるようになったのも最近のことです。少しずつ受け入れられていった実感があります。
小川
かなり悩みながら続けてきましたね。でも、そんな中で「きそがわ日和」の活動も並行してやっていましたから、今思うと自分でもよくやってこられたなと思いますよ。
篠田
やはり、きそがわ日和をやってきたことは大きな財産だと思うんです。直接的に店の売上に繋がったとは思いません。ただ、これのおかげで人間的に成長できたんじゃないですかね。商売とは全く関係ない活動をやることで、自分の中で別の視点を持つことができたというか、きっと店だけやっていたら考えが凝り固まっていたかもしれないな。
小野寺
コクウ珈琲がオープンしたてで大変なのに、全く違う領域であるきそがわ日和を始められたのは、どういうモチベーションがあったんですか?
篠田
これまた私らしく後ろ向きなきっかけなんですよね。2010年当時、市役所で街づくり関係のことをやっている嘱託職員の方から「中山道でアートイベントをやりたい」という話があって、それで小川さんに白羽の矢が立ったんです。何人か作家さんを見繕って、現地を見にいこうという段取りまで行ったのですが、結局計画が白紙になってしまいまして……。それで、作家さんを連れてきちゃっている手前、いまさらやめますとも言えなくなってしまい、もういっそ自分たちでやることにしたんです。
小川
それで、せっかく「まちとアート」というテーマなら、固定したギャラリーをやるのではなくて、テンポラリーな形式の方が良いんじゃないかということで、中山道沿いの町屋やお寺を使わせてもらって展示を開催したり、世界で活躍された彫刻家の眞板雅文氏と親交が深かった美濃加茂市下米田町の藤井夫妻宅を展示スペースにして眞板氏の作品を展示したりと、まちに入り込んだアートイベントを初年度は開催しました。それから毎年継続してイベント開催やアーティストインレジデンスの企画を行って、これまで80人くらいの作家がこのまちと関わりを持ってきました。
篠田
1年目は、わりと小規模な展示がメインだったのですが、2年目の2011年は木曽川緑地ライン公園を使わせてもらって、アート・音楽・飲食ありの大きなマルシェイベントみたいなものにまで発展したんです。そうすると本来はアートが主であるはずなんだけど、逆にマルシェが目当てのお客さんが増えてしまった。それで天邪鬼なわれわれは、だったら方向性を考え直さなきゃいけないなと、以降は大規模マルシェ路線をやめました。
でも、これだって一度やってみないとわからないことでしたね。だからとりあえず楽しそうだと思ったことはなんでも手を出してみて、結果的に違ったらやめようというのを繰り返して13年やってきました。
小野寺
今年(2023年)の7月には、中山道沿いにきそがわ日和の拠点として「Empty Space」がオープンしました。拠点を持とうと思ったのにはどんなきっかけがあったのですか?
小川
Empty Spaceは元々クリーニング店だった建物を改装して、文字通り何もない場所をつくりました。これまでも何度かきそがわ日和の展示スペースとして使わせてもらった建物です。アートの展示に限らず期間限定でお店をやってみたい方だったり、何でも良いので、このまちで何かやりたいと思っている方に活用してもらえたら良いなと思っています。実は、Empty Spaceの立ち上げに私はそこまで関わっていなくって、篠田と、理事の田原さんが一所懸命大家さんを説得して、オープンまで漕ぎ着けられました。私が質問するのも変ですが、どうしてそんなに情熱を持ってやってたんですか?
篠田
箱があるのは何かと便利なんですよ。
小川
コクウ珈琲があるから良いじゃない?
篠田
これまでは事務局がコクウ珈琲の中にあるというかたちをとっていたけれど、コクウ珈琲ときそがわ日和はあくまで別ものですから。きそがわ日和には私や小川さんの他に10数名の方々が関わっていますし、彼らが活動をしていく上でも、思ったアイデアを自由に形にできるエンプティな箱が必要だ、と色々やっていく中で思うようになったんです。
小川
私からすると、やっぱり不思議ですよ。やり始めた頃は「きそがわ日和は解散した方がいい」ってずっと言ってたんですよ。それが、こんなふうに情熱を注ぐようになるなんて、「一体どうした?」って思いますよね。
篠田
それはうちのお店が安定してきたからじゃないですかね。心の余力が生まれたんですよ。だから「やりたいことやるぞ!楽しいことやるぞ!」という情熱を素直に表に出せるようになってきた。お金は大事なんですよ。きそがわ日和の活動は、ことお金のことに関しては途中から考えを変えていったんです。「大の大人が動くならしっかりとお金を動かそう、関わってくれた人にはしっかりとお金を払わなきゃならない、それに伴って規模が縮小するのは当然だ」という考えにシフトしたんです。もちろん、これは当たり前のことだし、最初からそうすべきことですが……自分たちも最初のうちは好きだから・楽しいからと無報酬でやっていたけれど、それでは組織として疲弊していきますからね。
小川
そうですね、シフトしていった時期が私が文化の森を辞めた5年前くらいのことですね。市の施設に勤めてたこともあり、私も行政チックな脳みそになっていたんですよね。そこから、行政と同じようなことをしていても仕方がないと、必要な分の入場料を取るとか作家の作品がもっと売れるようにしなければならない、とお金のことに向き合うようにしてきました。もちろんそればっかりではいけませんけどね。
できることの大きさを、見誤らないこと
小野寺
2010年以来、まちと人をアートを通して繋ぐ活動を継続されてきたわけですが、街づくりにおけるアートの力を感じますか?
篠田 街づくりを経済活性化とイコールで捉えるならば、アートはビジネスになりにくいし、市民の方が思い描くようなかたちで街づくりに寄与できているかというと、正直いって難しいところがあります。でも私はそれで良いと思っているんです。
今回のインタビューにあたって、街づくりについて久しぶりに考えたんですよ。例えば株価って誰かひとりの意見で決まるわけではありませんよね。私たちみたいな末端の人間の意識も市場価格に影響しているはずです。街づくりもそうなんじゃないか。今の街づくりもみんなの総意でできているのは間違いないと思うんですよ。だから、きそがわ日和の活動の影響をなんら感じない人が大多数でもいいし、あるいは数%でもわれわれの活動に共感して、まちに対してもっとアクションを起こそうと思ってくれる人がいてもいい。彼らもまた総意の一部ですから。われわれができることはアートに過度な幻想を抱かずに、そのありのままの力を受け止めて、活用していくことなんだろうなと思っています。できることをできる規模で、これからも持続させていくことですね。
小野寺
美濃加茂は、大都市に比べれば誰かの想いが、アクションが人々に届いていることが実感しやすい規模のまちではないかと思っています。
高木
たとえ数%の少数でも、一人ひとりの顔が見える状態でフィードバックをしあえるような距離感が、このまちにはあるような気はしています。
篠田
2014年に、今もお世話になっている東濃信用金庫主催の「とうしんプロボノプロジェクト」という、信用金庫の職員たちがNPO法人の支援を行う企画に参加させていただいたんです(プロボノ:ラテン語の「Pro Bono Publico」=「公共善のために」を語源とする言葉。職業上のスキルや経験を持ち寄って取り組むボランティア活動の意)。われわれの他に、恵那市で棚田の保存活動を行っているNPOが参加していました。その時も、「きそがわ日和の活動は、(経済的にメリットがある)地域活性化にはならない」という指摘をされました。でも、それがすごく良い経験になっています。ただ否定し合うのではなくて、月に1度のワークショップを半年間継続して、互いの考えをぶつけ合うことができた。われわれも「やはりまちで芸術活動をやるからには、収益は無視できないぞ」と再確認できました。
大きくドカンと経済性を取りに行くやり方ではなくて、「自由と偶然から生まれる、価格をつけることができない体験を提供する」というきそがわ日和の目指すところを、職員の方々も最初は理解してくれなかったけど、意見交換を重ねるうちに共感してくれる職員の方もいました。その方はその後のイベントに毎回足を運んでくれています。最後まで共感はできないという方もいましたが、それもまた良いじゃないかと思えるようになりました。われわれに対するあらゆる意見に真摯に耳を傾けることが大事なんだなと。
小川
外からの評価を気にしすぎるより、まずは自分たちがどうしていきたいかを考え、発信し続けないと、人もついてこないしわれわれの活動に興味を持ってくれないと思いますね。今回新たに作ったEmpty Spaceも規模としては小さいし、オープニングでやった展示の来場者数もこのまちの人口から比べたらごくわずかです。でも、この一定数に私たちは確かにリーチできていることも認識した上で、慢心するでも卑下するでもなく、今後も地道に活動を、発信をし続けていきたいですね。
背中を見せ続けることが、次の世代を呼び込む
高木
最後の質問です。僕はこのまちでお店を始めたばかりで、お店を始めるために今まで10年くらいかけて準備してきたみたいなところがありました。でもここから先10年美濃加茂でお店を続けた時に、僕がどんなことを思っているのかが今はまったく想像できない状態です。それを経験されているおふたりは、この先のことをどう見ているのでしょうか?
篠田
ひとつの役目を終えたような感覚はあります。冒頭でもお話しましたが、同じエリアに色々な商売をやる人たちが集まってきてくれたのは嬉しいです。実際に、うち以外でこの10年内に新しくできたお店に憧れを抱いて新しい次の世代がお店を構えるなんてこともありました。たとえば次は高木くんに憧れて新しい人がくればいいなと、その循環がずっと続いていけばいいですね。
小川
そのきっかけに「Empty Space」を使ってほしいですね。私たち経由じゃない人が新しい人を呼び込んで、あのスペースで、その後に繋がる何かをやってくれたら素敵ですね。
篠田
もちろん商売はまだもう20年くらいは続けないといけないですよ。うちみたいに、ちょっと特殊な、客を絞ったような、コーヒーが主体の商売でも美濃加茂でやっていけているんだよっていうモデルケースとして生き残っていかないと、この場所の魅力に説得力が生まれませんから。だからまだまだ生き残って、それで今まで以上に楽しいことをEmpty Spaceでやっていけたらな、と思っています。
(2023年7月19日収録)
聞き手:小野寺諒朔、高木健斗(らんびー)
構成・編集:小野寺諒朔(地域想合研究室)
編集補助:福田晃司、春口滉平
デザイン:綱島卓也