今更映画の文句
映画「STAND BY ME ドラえもん」批評。
もう検索すればこの映画のここがダメだとか嫌いだとか監督が死ねばいいだとかの文章はいくらでも出てくるんですが、それらを勝手に私なりに発展させてしまおうと思い書いてみます。今更。
主に言われているこの映画への批判、特に脚本に関しては成し遂げプログラムを中心に原作との対比についてが多いようです。原作ファンであるが故に一言言わずにいられないとばかりに熱を込めて批評文を書いている気持ちはよくわかります。しかし「原作のここがいいのに、変えてしまったから駄目だ」というところで終わってしまい、ともすればただの声の大きい老害扱いされかねない文章もありました。
しかし私は声を大にして言いたいのは、この映画のダメな部分はそんなもんではないということです。
この映画のダメなところ、それは「原作に依存しているくせに勝手に作り変えている」点です。先に言っておくとこれはリスペクト云々の話ではなく、コンテンツの一つとしての面白さの話です。
ドラえもんのキャラクターたちは大変強力です。ジャンレノやブルースウィリスが演じようとも青くて鈴がついていればドラえもんのパロディとわかりますし、周辺のジャイアン・スネ夫・しずかちゃんですらドラえもんというキーワードがなくとも単体のキャラクター名として周知されています。彼らを改めて映画化するにあたり、その個性を一本の映画の中で描きなおすのは不可能であるし、また必要もないと判断されたのでしょう。のび太はのび太であるからジャイアンとスネ夫にいじめられますし、のび太がしずかちゃん以外を好きになる可能性は考慮しません。これがつまり原作に依存している部分です。基本的にこの映画はドラえもんを知っている人向けの作品であるのは間違いないでしょう。事実日本人の中でドラえもんを知らない人は稀な存在でしょうから、その点のみでは全く問題ありません。問題は、見る側のドラえもんに関する前提を土台にしているにもかかわらず、それを都合よく捻じ曲げている点です。
これが顕著に表れるのが成し遂げプログラムです。ドラえもんは未来に帰りたいときに帰れず、帰りたくないときに帰らされるジレンマ=泣き所のために導入された舞台装置ですが、序盤と終盤以外では登場しません。しかし観客としては「ドラえもんは未来に帰りたいけど帰れないからのび太の家にいる」という、従来のドラえもん観の軌道修正が必要になります。それなのに、ああそれなのに、最終的にドラえもんとのび太の間に成立した友情は原作のそれと全く同一のものとして進んでいきます。これが私にはものすごく気持ち悪いのです。
他の友達との関係もそうです。未来でのび太は結婚前夜にジャイアンやスネ夫に祝ってもらい、嬉しそうにしています。映画内では彼らはさして活躍していませんから、やはり原作やTVシリーズ・大長編における関係を前提に飲み込める情景です。一方でしずかちゃんに対してはそうした補完が許されていません。ストーリーの都合上この映画のしずかちゃんは「仲間」ではなく「お姫様」として扱われています。これに関しては広義でのヒロインには違いないのでさほど違和感が無い人もいると思いますが、私としては気になりました。のび太自身がしずかちゃんよりダメダメヨワヨワ人間だからこそしずかちゃんはのび太と結婚する気になる原作に対し、こちらのしずかちゃんはのび太の胸で泣いたり雪山で最終的に助けられたりするのですが、結婚に至る同機は原作と同じものとして描かれています。これが矛盾でなくてなんでありましょうか。
このようにこの映画は既存のドラえもん観に大いに依存しており、誰もが持っているドラえもんの世界を引っ張り出した上で全体の矛盾など考えず感動的っぽいシーンを作るためだけに書き換えられています。観客としては映画の中で描写が足りない部分を好意的に補完して観ていたら「いやそういうんじゃないから」と言われるような。どなたかが書いた感想で「本を貸したら汚して返された」という言葉が非常に秀逸であるように感じます。このような問題点を抱えた作品ですから、元々ドラえもんに思い入れの強い人ほど酷評したくなるのは必然と言えるでしょう。
従ってこれは「ドラえもんが好きな人のための映画」ではなく、「ドラえもんの存在は知ってるけどさほど強い思い入れのない、ただ泣ける映画イコールいい映画だと思ってる人のための映画」であることになります。正直それならドラえもんじゃなくて桃太郎ででもやってくれと思わないでもないですが、次回作についてはドラえもん好きの諸兄におかれましては見えている地雷をわざわざ踏みに行くことなく、その時間を海底鬼岩城の復習にでも充てましょう。
お寿司を食べます。