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【歴史探訪】鹿歩山古墳の主は世渡り上手!~あちら(築山古墳)の石棺は阿蘇ピンク石だけど~

 近年、「永代供養」「墓じまい」という言葉を聞くことが増え、死生観が変わりつつあるように感じます。お墓と言えば「古墳」!今回は、もし自分が一族の長で、そろそろ古墳を作る準備をしなければならないなら……という壮大なタラ・レバ話です。
 時は5世紀の第4四半期。牛窓にはおよそ70年以上前に作られた天神山古墳(主に会ったことはない)と、まだ記憶に新しい数十年前に作られた黒島古墳(子供の頃におじさんだった人の)がありました。
 天神山古墳の石室の石は屋島から運んできたもの。この界隈ではあまり使われていないこだわり素材です。現在、古墳の前方部にある天神社の祭神は少彦名大神ですが、古事記では大国主の国造りにも参加したいたずらっ子キャラの神様。高句麗好太王碑には「391年以来倭が海を越えて襲来し」と記載があることや、古墳時代中期までは出雲でも前方後円墳があるけれどもその後は前方後方墳に変わることから、4世紀中頃は出雲も含めた全国で広範囲な“仲間的なつながり”があったみたいです。つまり、天神山古墳の主はコミュ力が高く、香川にも何らかのツテのある人だったのかも……。
 その後できた黒島古墳は、陪塚《ばいづか》がある、出土品も河内の陶邑窯《すえむらかま》の須恵器、最古級の人物埴輪、朝鮮半島の土の土器などが出土しています。今は建物だけしか残っていませんが黒島には武内神社がありました。武内神社の祭神を調べるなら牛窓神社が参考になります。応神天皇、神功皇后、武甕槌命,姫大神,山田彦命とのことですが、応神天皇は吉備武彦の娘を妃にしていますし、大きな前方後円墳を作るブームもきていましたので、「島に古墳を作りたい?お前らしくて、いいね!船で見に行こうぜ!」ってこともあったかもしれません。
 さて、いよいよ、古墳バブル期の次、5世紀の第4四半期は強権発動の時代。第16代仁徳天皇が吉備海部直《きびのあまべのあたい》一族の黒日売《くろひめ》を后にしようとして大后の嫉妬を買ってしまいます。それくらいならまだいいのですが、皇位につかんがために粛清しまくったワカタケル=第21代雄略天皇は、吉備下道前津屋《きびのしもつみちのさきつや》、吉備上道田狭《きびのかみつみちのたさ》らとトラブル(しかも田狭の奥さん稚媛《わかひめ》が美人と聞いて、田狭を任那に派遣し、その間に横取りする!)。479年に雄略天皇が亡くなった際に、稚媛を母に持つ星川皇子が乱を起こす!という緊張関係にあったようですね。吉備地域で大規模古墳がつくられなくなりました。
 そして強い政治家雄略天皇の後は、存在さえ疑われるほど印象の薄い清寧天皇、顕宗天皇と続き、その次は第24代仁賢天皇、宮は天理市。さらに次の日本書紀に無茶苦茶書かれている武烈天皇、宮は桜井市。そしてここで皇統が変わったんじゃないかと疑惑を持たれている近江生まれ・越《こし》の国育ちの第26代継体天皇の代になります。
 この間の雄略天皇と吉備氏本家筋がもめていた「うっかりすると、とばっちり」時代に牛窓で作られたのがヨットハーバーの上にあり、鹿忍地区に隣接する鹿歩山古墳です。

牛窓オリーブ園からのぞむ鹿歩山古墳(ヨットハーバーの側の山)

 ここで先に注目したいのが、鹿歩山から真北8.6キロ、歩いて2時間くらいのところにある築山《つきやま》古墳。長船町西須恵という地名に「須恵器」関係がみてとれますが、そばに美和神社があります。祭神は大物主神。国づくりには山に自分を奉れと言ったその山が三輪山、お酒の神様ですね。で、驚愕ポイントはこの築山の石棺が阿蘇ピンク石だという点(題字部分の画像です。詳しくは後ほど)。現在分かっている範囲で言えば、この石が使われている同時代の古墳や遺跡は藤井寺市、羽曳野市、桜井市、奈良市のごくわずかの舟形石棺だけということです。実は、雄略の后の中には大和を拠点とする葛城氏出身の韓媛がいて、その子が清寧天皇になっていますので、築山古墳の主は葛城氏のバックが強い=権力があったことがしのばれます。とばっちりどころじゃないんですね。
 では、鹿歩山古墳は?というと、残念ながら阿蘇ピンク石は使われていません。手掛かりに、すぐ近くの鹿忍神社の祭神をみると、天児屋根命,布津主命,武甕槌命,姫大神,山田彦命……中臣氏や物部氏、春日大社などとの関係のようで、結びつけるには薄すぎます。ともかく築山古墳と鹿歩山古墳という80m級が隣接してあること自体、何か意味がありそうですが……。そして5世紀前半黒島・5世紀後半鹿歩山古墳・6世紀前半波歌山《はかやま》古墳の主は吉備海部直一族か?という説がありますが、583年に百済から日羅を連れて帰った吉備海部直羽島《きびのあまのあたいのはしま》が波歌山にビンゴかな?という感じです。
 それはともかく、阿蘇ピンク石って何なの?ですよね。約9万年前に熊本の阿蘇山が噴火し、溶岩が冷え固まってできたものです。雄略期に桜井市を中心に阿蘇ピンク石がちょくちょく導入され、なぜか長船の築山古墳にもという不思議な状況ですが、実はこの後の動きが興味深い。6世紀第1四半期の天理市の東乗鞍古墳(被葬者は物部氏か穂積氏か?)、6世紀第2四半期の野洲市丸山古墳(継体の出身地?近江毛野氏か?)、甲山古墳、高槻市の今城塚古墳(継体天皇か?)、6世紀第3から4四半期の橿原市の植山古墳の家型石棺。そもそも継体天皇と不仲の磐井がいる北九州では近くても使われていないことからも、継体天皇が生きている間はピンク石使用制限をかけていた、そして亡くなった後は推古天皇がお気に入りの長男竹田皇子の植山古墳に使っただけということ?(ちなみに竹田皇子は葛城地方の地名から命名されていて、593年頃に亡くなったとされています。)
 考えてみれば、いくら素敵な石でも、熊本から近畿まで運ぶのは並大抵のことではありません。実際に2005年に「大王のひつぎ実験航海プロジェクト」というのがあったそうで、九州から近畿まで運ぶのに7月24日から8月26日、約1か月かかったそうです。古代船で運ぶには、港を確実に中継する協力体制が不可欠です。5世紀の舟形石棺用材を運んだ実績の上、6世紀に入ると家型石棺用材が20年に一度くらい運ばれるのはある種の政権パフォーマンスだったかもしれません。
 さて、古墳というお墓、ものすご~くざっくりと言えば、形で属性を、規模や副葬品で権力や財力や個性を、埴輪などとともに見える化したものですが、古墳バブル期があったり、いろいろと忖度も必要になったり。もしも自分が古墳を作るとなると「どこに?形は?大きさは?何日かかるの?埴輪できた?何入れるの?もう、いくらかかるの~~~」となりそうです(タラ・レバなので、楽しいだけですけど)。結果論から言えば、普段から大王とトラブルが絶えなかった吉備地域と比べ、牛窓地域の鹿歩山古墳・波歌山古墳の主たちは、大規模古墳を作ることができ、世渡り上手だったと言えるでしょう。にしても、雄略天皇は自分の陵を破壊されそうになる(皇統が絶えそうになる程粛清した自業自得!)し、日本史上初の女性天皇である推古天皇が格別愛しい竹田皇子の墓に、最高の阿蘇ピンク石を使うということは、もちろん権力があるからできることですが、やはり愛憎の発露だろうな、お墓ってそういうものかもと思われました。実際のワタシのお墓ですか?さて、どうしようかな……埴輪は欲しいかも。
※古墳の名前、時代、規模。被葬者や神の名前、年代などは諸学説あります。また、古墳には非公開なものも多数ありますので、今後発見されるものもあるでしょう。楽しみですね。

参考文献:『牛窓町史』、講演会「古墳時代の瀬戸内市」資料(亀田修一)、YouTubeしまこだチャンネル「古墳と伝承から古代出雲の深層に迫る」(高橋克壽、古市晃、勝部智明、森田喜久男)、岡山県神社庁HP、『大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎』(NHK大阪「今城塚古墳」プロジェクト)、『天皇陵古墳への招待』『敗者の古代史』(森浩一)、『石棺から古墳時代を考える』(間壁忠彦)、『弥生国家論』(寺沢薫)、等
監修:金谷芳寛、村上岳 文と写真:田村美紀


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