【歴史探訪】「牛窓」の地名由来逍遥
住所を見て「ギュウソウと読むのですか?」と尋ねられることがあります。珍しい地名ですよね。神功《じんぐう》皇后が牛鬼を退治したことから「牛、転《まろ》び」、だんだんと訛って「ウシマド」という伝説が地名由来としては主流です。『牛窓町史』には「潮の間戸」が至当だろうと書かれていますが、古書から拾えば、「宇島津」「牛間戸」「潮真戸」「潮真門」など漢字のバリエーションが豊富に見られます。そして今、地名を検索してみると「牛」がつく所は沢山ありますが、「窓」がつく所はとても少ない……「間戸」はいくつかありますが。今回は地名の深層にあるものは?特に漢字を辿って逍遥しましょう。
水門があるなら島門も
文字がない頃のこと、AさんとBさんなど複数の人が何らかの必要があって、場所をシンプルに地理的形状で呼び始めます。例えば川の河口は「水門《ミナト》」。おおむね歩いて行ける範囲に1か所しかミナトが無いなら「ミナト」で事が足りますね。しかし、人々が広く移動するようになりミナトが2つ以上、そして携帯電話も無かったら、すれ違いになるので、どのミナトかの差別化「○○の」という言葉が必要になります。例えば瀬戸内海を行き来する人の間では武庫川の河口を、「務古《ムコ》水門」などと呼ぶように、です。このルールで命名されたのであれば、「島門《シマト》」に差別化の「ウ」がついた説もあってのいいのでは?とまず素朴な疑問が浮かびました。
それなら「ウ」は何?
話すだけでなく、言葉を記し始めたのはおおむね古墳時代です。牛窓で最も古い前方後円墳は天神山古墳、4世紀後半頃。応神天皇の治世が近そうですね。朝鮮半島と交流し、各地に海の管理人「海部《あまべ》」を置く、武内宿禰《たけのうちのすくね》を九州に派遣した等記録的にもしっくり。その応神天皇の愛息子はウジノワキイラツコ、漢字では菟道稚郎子とか宇遅能和紀郎子などと書かれます。ウジノワキさんは京都の宇治在住。また、このウジノワキさんの財政基盤の宇遅部《うじべ》が備前国にもあり、瀬戸内海から朝鮮まで地図を眺めると、「宇」のつく地名の多いこと!!宇野、宇多津、宇品、宇佐宇部、宇美、宇久……逆に畿内に目を向けると宇治、宇陀。例えば宇佐は莵狭、宇多津は鵜足郡で、「莵」や「鵜」の字があてられている例もありますが、「ウ」がつく所は海で活動をしていた海部とつながりのあるのではないかと考えられますし、というか、牛窓のその後の前方後円墳の被葬者は吉備海部直《きびのあまのあたい》ではないか?と言われていますので、もう、「ウ・シマドのウ」は「ウジノワキさん関係のウ」で良いのではないかとすら思えてきます。
漢字の「菟」「鵜」「宇」
調べるうちに出てきた「菟」「鵜」「宇」。元々大陸に倣って、音をなんとか漢字で表したのが万葉仮名。が、ランダム過ぎて、使用ルールの謎が文学界でもまだ沢山残っています。
ひとつずつ見ていきましょう。「菟」はウサギの旧字。今の宇治市には、ウジノワキさんが道に迷っているとウサギが道案内をしてくれたから「菟道《ウジ》」という伝説があります。いやいやそれはおかしかろう、ウサギがたくさん通るからと言ったのは、かの有名な博物学者南方熊楠《みなかたくまぐす》です。単に、山や池に囲まれた「内《ウチ》」というシンプル地形説もあります。因幡の白兎にもウサギが登場し、いろんな解釈がされていますが、兎の道案内説はウジノワキさんにウサギのイメージをつけようという意図も感じられますね。
続いて「鵜」について。石川県羽咋市の気多神社に鵜祭りがあります。12月に七尾市鵜浦町で生け捕りにした瞬間から神様になった鵜様《うさま》を拝み、来る一年を占う神事が今なお行われてます。昨年は鵜様が約10分間ほぼ動かず、「こんなに動かないとは……来年はとにかく慎重に過ごせということ?」と言われた矢先の元旦の大地震。鵜様の地震予知!?すごい!もう一つ、興味深い話として、山口県下関市土井が浜遺跡から出土した弥生時代の巫女らしき人骨の胸あたりにあった鳥の骨はずっと鵜と信じられ「鵜を抱く女」と呼ばれてきましたが、どうやら鵜じゃないらしい……フクロウだとか。コラーゲンの分析で解明されたらしいですが、思い込んで間違えるほど考古学界では「鵜=神聖」と考えられてたんですね。
最後に「宇」。まず大前提として「宇」はかな文字「う」の字母(草書体を崩して簡略してつくられた元の字)で、意味は「大きな屋根の下」です。「宇」のつく地名が多いのは713年に元明天皇が中国に倣って、地名は素敵な漢字二文字にしましょうね、と出した「祖国郡郷名著好字令」が契機になっているかもしれません。「鵜」も「菟」も素敵ですが、いかんせん字画が多く難しすぎる。奈良時代の役人さんたちの、意味も良く簡単な「宇」で済ませたい気持ちもよくわかります。
しかし、ウシマドは結局「牛窓」になっていきます。詔では二文字という決まりがありましたが、それにしてもなぜこの漢字なんでしょう。
伝説は、殺牛儀礼で疫病から逃れたいから?
近い時代、中国では祭祀やいけにえ、誓約としての道教的な「殺牛儀礼《さつぎゅうぎれい》」があったそうです。日本の記録では642年には日照りが続き、牛や馬を殺して祀るなどしても効果がなく、蘇我蝦夷《そがえみし》が仏典によって降雨を祈ることを提案したとあります。791年には若狭や越前などに対して、仏教的観点から、牛を殺して漢神《からかみ》をまつることを禁止。どうやら懲役1年の刑だったとか。結構厳しいですね。『日本霊異記《りょういき》』には、聖武朝、摂津の裕福な商人が漢人の祟りから逃れるために毎年1頭ずつ七年間牛を殺したが重病にかかり、殺生のせいと悟り、改心して祈りなおしたが死んでしまった、しかし地獄で閻魔大王に「殺生したが後で祈ったから」許されたという話があります。漢人の祟り……それは、ズバリ感染症。例えば735年に帰国した遣唐使船から蔓延した天然痘。聖武天皇の皇后光明子の異母兄弟の藤原4兄弟ですら次々と亡くなってしまいました。大陸や半島から何日もかけて船で港々に寄り、交流し、都に向かうにつれ、船内や寄港地に疫病が広がることは容易に想像ができます。瀬戸内海の旅も後半に差し掛かろうという牛窓あたり……微妙……しばらく停泊して様子を見てから都に来てくださいな、で、ウジノワキさんのおばあ様であり女傑の神功皇后に漢人と牛をイメージした牛鬼を退治してもらい、伝説で継承することにより安心感を得たというところでしょうか。
前方後円墳はあるが古代寺院がない理由
でも、仏教を広めている最中でしょう?また古い習俗に戻るの?というご意見があるかと思います。一つの根拠っぽいこととして、牛窓には円墳はありますが、古代寺院がないんですよね。大きな前方後円墳があれば代々の豪族や秦氏などの渡来系工人集団がいて、古代寺院がありそうなもの。長船町にももちろんあります。そもそも仏教は税収目的、律令に従わせるための手段という面もありましたので、その土地で農業や塩・鉄・布などを生産する一族、おおむね渡来系の技術者集団がいるところでは、安定的に諸々の物産を創り出す共同生活が重視され、その教化のためにお寺ができたわけです。逆に言えば、牛窓の南海岸線側は物産を創り出す人々が土着する場ではなかったと考えられないか。例えば朝鮮半島栄山江付近にも5世紀頃の前方後円墳があって、やはり代々性が乏しいとみられています。海を越える人々に共通する莫大な交易の魅力と、明日はないかもしれないリスク!牛窓の前方後円墳の被葬者は海の支配権を持つ吉備海部直か?と言われ、副葬品に新羅系器も出てきたり、もともと錦海湾南側の地区の師楽《しらく》は新羅《しらぎ》と関係が深い。日本の殺牛祭祀は、中国の殺牛儀礼とは少し異なり、新羅の渡来人から伝わったというのが定説ですが、なんと『日本霊異記』には楢磐嶋《ならいわしま》という新羅系商人、越前まで交易をしていた人の殺牛の話も出てきます。となると、奈良時代には錦海湾の北側は寒風の陶器や長浜・邑久・長船地域の税や物資を都に運ぶための国内生活密着港、牛窓港は吉備海部が使う国際港と使い分け?と考えつつも、奈良時代の都近くの地名にヒントがあるのではないかと思われ始めました。
牛は「大人《ウシ》」貴人説も浮上
日本地名学研究所 所長・文学博士の池田末則氏著の『古代地名紀行――大和の風土と文化』によると、奈良の山辺郡山添村にある「的野」という大字について、もとは「間戸野」と書き、「間戸」は狭いところという意味だそうで、氏は「岡山県牛窓も同義の形状地名であろう」と書いておられます。シンプル地形説ですね。続けて、この山添村中峯山は「天王」とも呼ばれていることにも触れていました。なにやら怪しい……また、若草山の紹介では近くの5世紀ごろの鶯塚古墳は別名「牛墓」というそう(ん?また牛ですか!?)で、実際は「大人《うし》墓」で、権力者を鎮める意味だとか。となれば、権力者の鎮魂をした「うし」、狭い水路のあるところ「まと」という説も考えられます。では他県にも「大人」事例がないか、探していると……ありましたね。徳島県牛島《うしのしま》村。忌部文化研究所HPに『麻植郡回在記《おえぐんかいざいき》』に由来は、「往古、阿波忌部《あわいんべ》の麻を作り布を織る職人が住む川中島であったところから、苧師島《おしのしま》と呼ばれ、その後裔が居住したところから、大人島《うしのしま》と呼ぶようになった」と寄稿がされていました。備前市の伊部《いんべ》も元は「忌部」からきていますので、可能性として捨てがたいです。
地名学研究所の池田氏によると、音が欠けたり加わったり変わったりもよくあるそうです。「う」も後付けで元は単純に「シマド」なら?んん?もしかして「ヤマト」が山でシマドは島となれば、牛窓は大和に匹敵するすごい場所?若草山が権力者の鎮魂の場だったように、牛窓も実はものすごい権力者の……なんてね。これはすご~い古代(誇大)妄想です。
参考文献ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『秦氏・漢氏―渡来系の二大雄族』宝賀寿男、『全ての道は平城京へ』市大樹、『日本史の謎は「地形」で解ける』竹村公太郎、「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜』門田誠一、HP地名と人々の営み 浦上宏、(社)忌部分化研究所 林博章、福井県史通史編1
監修:金谷芳寛、村上岳 イラスト:ダ・鳥獣戯画 文:田村美紀