【歴史探訪】服部家初代 鍛冶屋五郎作信則が移り住んだころの港町牛窓
「服部姓系譜略述履歴 全」には、1673年(延宝元年)鍛冶屋五郎作信則が「畠田から牛窓へ居を遷し、農具鍛冶を開業す故、屋号を鍛冶屋と云」と記されているそうです。長船町の刀剣の里の近くに「服部」、現在は備前市にはなりますが、すぐ近くに「畠田」という地名がありますので、元々このあたりの鍛冶職人だったことは間違いないでしょう。
この1673年は改元された年です。当時の天皇は後水尾天皇の第19皇子である霊元天皇です。(譲位はしなくとも改元はされていました。)兄・後西天皇の養子となり、1663年に位に就きますが、わずか9歳だったので、当初は父の後水尾天皇が院政をとっていました。霊元天皇は奔放な性格だったようで、17歳の時、宮中で花見の宴を開き泥酔してしまったり、27歳の時、法皇の命で世継ぎに内定していた自分の第一皇子を強引に出家させ、外祖父を佐渡に流刑にする小倉事件を起こしたりなど、数々の事件を起こしています。とはいえ78歳と長生きで、和歌に優れ、勅撰和歌集の編纂を命じたり、能書家として知られたりというだけでなく、絵も現存しているそうです。
霊元天皇は徳川幕府と距離をとることも多かったようですが、当時は4代将軍家綱の治世でした。家綱は3代将軍家光の長男で、待望の男児だったため、1651年に11歳にして将軍職に就きました。また、家光時代の名臣がおり、家綱は老中らに政務を任せて「左様せい」と決裁していたことから「左様せい様」と呼ばれていたそうです。重臣たちが相次いで世を去り、1666年には酒井忠清が大老に就任し、このころから家綱の本来の治世が始まります。家綱は、新井白石によれば「貞観政要」を好んだといわれ、文治政治を行い、罪人や民を思う人情的なエピソードが残っています。また、温厚な性格で絵画や魚釣りを好んだともいわれています。家綱の功績としては、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させ、全国的な流通を整備したことが大きく讃えられています。そして1680年には家綱が亡くなり、弟の綱吉が5代将軍に就きます。綱吉も当初は徳による文治政治を進め「天和の治」と讃えられていましたが、後年は側用人を重用して悪政を行い、かの有名な松の廊下、赤穂事件も起こっています。また蚊を殺しても罪に問われる「生類憐みの令」は綱吉が亡くなるやいなや廃止されるほどでした。
その頃の岡山藩はというと、備前岡山藩初代藩主池田光政が1672年に嫡男綱政に藩主の座を譲り、隠居となりながらも実権は握り続けていました。光政の功績は、新田開発を盛んに行ったこと、1670年には津田永忠に命じて、日本で初めて庶民教育「閑谷学校」を作ったことが有名です。そして牛窓の港には瀬戸番所・加子番所、牛窓湊在番所を設け、「在町」に指定して商いが自由にできるようになっていました。そして名君の誉れが高く無骨な父・光政が1682年に亡くなると、子・綱政の藩政が始まります。綱政は子供が70人もいたなどかなりな色好みだったといわれていますが、能や和歌や書に通じ、京の公家文化にあこがれていただけでなく、後楽園を造営し、また財政政策も成功していたと高く評価する学者もいます。
さて、家綱が将軍に就いたときから、それまで不定期だった朝鮮通信使が「新将軍謁見のため」という目的に変わり、定着していきます。1655年までは牛窓の接待所としては本蓮寺があてられていましたが、光政時代の1669年には本町にある「御茶屋」が大規模改修され、5代将軍綱吉が将軍になった際の1682年の通信使来航時には御茶屋が接待所になりました。その間の1673年には前島との間の本町に唐琴の瀬戸のランドマークとなる「燈篭堂」が設けられ、さらに綱政時代の1695年には津田永忠により「一文字の波止」がわずか10ケ月で完成し、港の価値が高まりました。そして、岡山城から牛窓までを結ぶ「牛窓往来」も整備されつつ、牛窓には繰綿問屋、他国米商、両替商、材木商が集まり、特に材木、造船業が盛んになっていきました。牛窓の町並みを表す「三町三か浦」という言葉があり、本蓮寺を境に牛窓勤番の藩士たちと町人が暮らす町方(東町・西町・関町)と農民と漁師が暮らす浦方(中浦・綾浦・紺浦)とに分かれていましたが、町はどんどん大きくなり、服部家のある中浦側へ町場が拡張されていきます。記録では1704年には約3,980人が住んでいたともあり、現在の牛窓町牛窓で人口約2,500人ですので、今よりずっと沢山の人が暮らしていたことがわかります。
牛窓の服部家の元祖信則にとって、徳川家綱の西廻航路開拓により造船業がさかんとなり、大量の船釘などの金物が必要となったのは鍛冶業にプラスに働きました。「在町」に指定されていた牛窓の商人たちの活性は池田光政綱政の港の整備や材木の商いによりさらに高まりました。服部家も四国と九州(特に土佐、薩摩、大隅、日向)へ「牛窓杣」を派遣して上質な木材を伐りだしており、大阪商人と直接取引することによって、莫大な利益をあげていきます。服部家の家紋、丸に十字も、島津家と同じ家紋で、九州との結びつきを想像させられます。(余談ですが、岡山銘菓大手饅頭の名付け親である第7代藩主池田斉敏は、幕末に活躍した島津斉彬の同母弟で薩摩藩からの養子です。また、高知には牛窓杣を祖とする牛窓姓の方々がおられます。)
霊元天皇や綱政の風雅な世風にも彩られ、「牛窓では、生きているうちに1回は、朝鮮通信使が立ち寄るという一大イベントに立ちあえるかもしれない」期待に満ちた場でした。そして1692年に初代信則が亡くなり、跡を継いだ二代目信治は「父の業を継又材木ならびに村方当用の所物売買を創業し、次々家昌になる」、3代目鍛冶屋源兵衛信利は「祖業の鍛冶職は今爰に廃し木材ならびに村方当用の所物売買を専奮激し朝暮に業を解(資料は懈)らす家弥増に熾ん也」とあるように鍛冶職人から材木等を扱う商人へと変わり、大きくなっていった様子が記録に残されています。
一度、しおまち唐琴通りに向かい、本蓮寺(一文字の波止を眺める)~御茶屋~燈篭堂を巡って、服部家初代信則、2代目信治、3代目信利の活躍した江戸時代初期の牛窓の賑わいを想像してみてはいかがでしょうか。
◆本蓮寺
南北朝時代に大覚大僧正が建立したという由緒の寺。本堂(1492年)、中門、番神堂(ともに1492年頃)は国の重要文化財。三重塔(1690年)、祖師堂(1691年または1769年)は県指定重要文化財。庭園は小堀遠州の手ともいわれている。
◆一文字の波止
全長678m、幅2.7m。元禄8年、津田永忠によって築かれた。永忠はこの3年前に上道郡沖新田の干拓工事を6ケ月で完成。年が改まり、岡山市内の橋の修理を行い、7月には番頭に抜擢されるも、8月に一部重臣たちの中傷によって藩主である綱政からの信任が薄らぎ、翌元禄7年には動きが見られない。そして牛窓の石波止は自ら築造を絵図でもって提言し、許可された。その間にも重臣たちから「永忠を郡代から罷免」の気運が高まってしまい、仕置家老にとりなしを依頼。翌年にはまた綱政から吉備津彦神社の造営を命じられる。波止ができるまでの10ケ月、永忠は港町牛窓で何を思っていただろうか。
◆御茶屋
藩主の保養を目的とする公邸だが、1682年以降の朝鮮通信使の接待所として知られる。隣接しているのが御番所という今でいう港湾警察。今この裏手は堤防道路となっているが、もともとは直接海に接していた。岡山藩の権威と威光を示すため、精緻に加工された巨石が石垣に用いられている。
1617年第2次朝鮮通信使往路の記録では「牛窓はまだ食事を供するところではない」、帰路ではただ、食糧と薪がわずかしか準備されておらず、民泊。しかし1624年の第3次の記録では、「本蓮寺が居住とされ、見物人が垣根のように立ち並んだ、世話をする日本人が皆年少で容貌が美しかった」、御茶屋がはじめて使われた1682年の第7次の記録では「贅沢で優れている」「三使の寝具、衣類、枕などはみな日本製で、絹を用いて作って差し出した。これは他の駅站ではなかった」、1711年の第8次の記録では「茶屋は新たに作られて、提供される食料品などは、すべて長門に比べ一層盛大である。館の前に海水が階を沈めたり、……景色もまた絶勝である。民家も鞆の浦に比べて一層盛大であった。」とあり、年々接待が豪奢になるのも藩力・民力あってのことと伺われる。なお、現在、御茶屋はギャラリー・カフェ(営業は不定期)となっている。
◆燈篭堂
現在の燈篭堂は昭和63年に江戸時代の絵図から推定復元。岬の天然岩礁の上に上質な石材を使って基台が築かれていた。掘りっ放しの矢穴も興味深い。
参考資料:「近代日本における地主経営の展開」大石嘉一郎、「牛窓港の『みなと文化』」金谷芳寛、「牛窓町史 民俗編」
写真/文:広報室 田村美紀
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