【歴史探訪】弘法寺の踟供養と中将姫
近年、暑さ寒さが厳しく、野外で気持ちよく過ごせる期間が短くなったように感じられます。とても貴重な快適シーズンの四月・五月には、お寺で「花まつり」「練供養」、牛窓の町では「お接待」などが行われます。今回は、五月五日に行われる、日本三大練供養、弘法寺の踟供養《ねりくよう》のお話です。
練供養は、一言で言えば、阿弥陀様への信仰心を深めることで、極楽浄土に行けますよ~ということを広めるために、長い歴史の中で、お寺ごとに工夫を凝らして行われてきた野外劇。弘法寺踟供養では、どうやら鎌倉時代中期に作られたらしい、2メートル近い!木像の!阿弥陀仏様が歩きます。現代のテーマパークのショーやお祭りイベントでも、キャラの中に人が入り踊ることもありますよね。しかし、被り物はおおむね動きやすい布やビニール製です。木像の中に人が入って、歩くって……重いし、上半身の自由はないし、酸欠になりそう……。それが鎌倉時代に作られたとは、気になりますね。
歴史を遡ってみましょう。
弘法寺は、白雉年間(650-654)に天智天皇の勅命で建立されたとも伝えられています。少し後、奈良の都と備前で、報恩大師という伝説の人物が活躍しています。孝謙天皇や桓武天皇の病を祈祷で快癒させる、その効験あらたかにより備前四十八ヶ寺建立を許される…その一つが弘法寺で報恩大師は「興法寺」として再興しました。報恩大師は弘法寺北の永倉山で入滅したという言い伝えもあります。
同じ頃、奈良の都で、藤原南家豊成に待望の娘が生まれました。幼くして母を失う、孝謙天皇に召し出されて琴を弾く、淳仁天皇に後宮に入るよう望まれるが辞す、「称讃浄土佛摂受経」を千巻写経する、蓮の糸で當麻寺曼荼羅を創る、29歳で極楽浄土に迎えられた……美しさと信心深さで聖女と称えられる、伝説の中将姫、後に、練供養の重要な登場人物ともなります。 その中将姫とゆかりのある當麻郷に、942年、源信が誕生します。天台宗僧侶となりますが、985年極楽浄土への道を説く「往生要集」を執筆。1004年には藤原道長が帰依、源氏物語に出てくる「横川僧都」もモデルは源信だと言われています。(ちなみに中将姫の生母は「紫の前」と言われています)そして1005年、當麻寺にて、初の練供養が行われました。
この源信に影響を受けたのが法然、浄土宗の開祖です。1133年に岡山県の久米南町に生まれ、比叡山で修行、そして1180年平氏らの焼き討ちにより東大寺や興福寺が焼失し、まずは法然が復興のため大勧進職にと推挙されましたが、重源に譲りました。翌年に東大寺の大仏の開眼供養を行ったのは後白河法皇で、しかも、自分自身が15メートルほど登って筆書きし、大盛り上がりだったとか。実は、弘法寺のあたり豊原荘は後白河法皇の荘園。都とのつながりが強い地域だからでしょう、後に造られた弘法寺東壽院の本尊阿弥陀如来立像(国重文)は、「あの」快慶作、その仏様の胎内に納められた阿弥陀の文字は後白河法皇の子孫で天台座主の真性が書いた字とのことです。鎌倉期の弘法寺古文書には「如法経」の法要が行われたという記録もあるそうですが、江戸時代には、練供養のことを「如法経行道供養」とも呼んでいるので鎌倉時代から弘法寺踟練供養が始まったとしても良いと考えられています。弘法寺は鎌倉・南北朝時代は朝廷の祈願所で、後醍醐天皇の綸旨の写しがあるとか、足利尊氏の御教書があるとか。中央とのつながりが深かったようですね。
時代が移り、文学や芸能が少しずつ変質を始めました。平安時代は貴族の、貴族による、貴族のための物語/文学でしたが、室町期には庶民の教化娯楽として、庶民や動物・異形が出てくる教訓ものが流布します。中将姫は姫様ですが、ピュアな心を失わない点が読者をひきつけたようですね。弘法寺踟供養でも極楽浄土に行くのは当初は行者だったそうですが、途中から人気の中将姫になったそうです。芸能では世阿弥作と言われる「当麻《たえま》」「雲雀山」が中将姫のお話。「小さいころに母を亡くし、継母になきものにされそうになるが、信心深さから成仏した」という万人に支持されるテーマから話の枝葉が、芸能の種類によって様々に広がっていきます。近松門左衛門の浄瑠璃「当麻中将姫」、1750年には文楽の「鶊山姫捨松」《ひばりやまひめすてまつ》が演じられました。ちなみに、西洋のシンデレラも継母もの、古い童話と言えばフランスのペローは1600年代の人ですから、時代も近く、興味深いですね。
さて、弘法寺に戻りましょう。江戸のはじめ、池田光政は弘法寺に61石を寄進、お成りの間もあったそうです。光政と言えば、1666年に寺院を淘汰していますが、弘法寺は残され、その頃までに、天台宗から真言宗に改宗しています。1687年、真念による四国八十八か所のガイドブックが発行され、超ロングセラーになったらしいので、空海の偉業が江戸時代に見直されつつあったのかも?ちなみに、弘法寺踟供養の法要で唱えられるのは「理趣経」。これは、まだ若者時代の空海に、立派な天台座主の最澄が経典を拝借したいと手紙を送って、断られた有名な経典で「自性清浄」を説いています。この読経の風にあたると風邪をひかないという民間信仰もあるらしいですね。
江戸時代には全国80近くの寺院で練供養が行われていたそうですが、現在行われているところは非常に少なくなりました。その中でも日本三大練(踟)供養と言われるのは「當麻寺」「弘法寺」「誕生寺」。誕生寺は法然の生家を熊谷直実がお寺にしたと伝えられるゆかりのあるお寺。練供養は、お寺ごとにちょっとずつ儀式の内容も違うようですが、どれが正解でもない点がまたいいですね。そして、もうひとつ、中将姫の紡いだという伝説の當麻寺の曼荼羅は調べると蓮糸ではなく絹糸製だとか。これは調べずヴェールに包まれていてほしかったです……。
弘法寺踟供養、五月五日は年に一日だけ。県道沿いにあるあの仁王門は1723年上山田村の大工尾形久兵衛作だそうですので、ゆっくりできる天気の良い日に、1758年に15院3坊もあったという昔を想像しながら弘法寺を散歩するのもいいですね。参考文献:『大和古寺大観巻2』、『NHK国宝への旅13』、『時空を翔ける中将姫』日沖敦子、『牛窓町史』監修:金谷芳寛、村上岳 写真:弘法寺文:田村美紀
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