「ポップな仇討ち 」
前々から書こう書こうとおもっていたnoteを、新年の謎の勢いではじめてみようかとおもう。
どうかお付き合いください。
突然だけど、こないだ、ある学生さんとお話したときにおもったこと。
そのひとは、もともと親とのコミュニケーションが良好ではなくて、「なぜ私ばかりがこんなに辛い思いをしなきゃいけないのか」という怒りの思いを抱えて、機会の平等とか、社会制度や福祉に興味を持っていたそうな。
その怒りがけっこうなエネルギーとなって、様々なことに努力ができていたそうで、北欧の高福祉国家にも留学したんだって。
で、留学してしばらく親元を離れたことで、なんだか今まで怒ってばかりだった気持ちが薄らいで、なんだか幸せを感じるようになったそうな。肩の力が抜けて、今までのモチベーションの源泉であった怒りが湧いてこなくなってしまったらしい。
で、激しい怒りがなくなってしまったことがわたしにとっていいことなのかどうなのかわからない、と言っていた。
大きなことを成し遂げる人は心のなかに消えない「怒り」を持っている人が多いのに、私のなかに強い怒りがなくなってしまったことは、よいことなのだろうか、という。
うーむ、これはとても良い問いだなあとおもった。
怒りというのは推進力になる。
思い返すと、ぼくも、怒りを燃料にしていろいろやっていた時期があった。
「絶対に許せない」「あのとき、あいつを追いつめたやつらを残らず駆逐したい」みたいな強いことばを使ってすごく怒っていた。
ぼくには、どうしても助けたかったけど助けることができなかった大切なひとが何人かいる。ちなみにきょうはそのうちひとりの誕生日ね。
今でもそのひとたちのことを心のどこかにおもいながら、世の中に「ポップな仇討ち」をしかけていきたいとおもうようになった。
この「ポップな仇討ち」という表現、なんとなく気に入っている。
なんで「ポップ」なのか。
いまでも怒りの気持ちが消えているわけではないし、そういうことばをつかったほうが分かりやすく伝わったりするのだけど、いつからかそういうことばを使わなくなった。
けっきょく、そっちのほうがラクなのだ。
強い怒りの感情をずっと持ち続けているのは、しんどい。
怒りは自分を一番傷つけることばだよ〜と、あのブッダも言っている。
燃えるような怒りの感情が頭の中の大半を埋め尽くしているようなひとは、めちゃくちゃな実行力を伴っていることが多く、「すごいなあ」と感服しながらも、どこか恐縮してしまう。ずっといると、肩がこってしまう。
こちとらなるべく家の中にいるみたいにだらだらしてスプラトゥーンをやっていたい。
だから、基本「ポップ」なほうがいい。
そっちのほうが、一緒に居てリラックスしてくれる心地よい人になれるのではないかとおもうようになった。
たまに血管がちぎれるぐらいの勢いで中島みゆきの「命の別名」を熱唱するのも大好きなのだけど、日常的に聴くのは「カローラⅡにのって」とか、「ソウル・ボサ・ノヴァ(オースティン・パワーズのテーマ)」とかがよい。ノリがラクだ。
そういうわけで、これからもポップな仇討ちを、のほほんとやっていきたい所存です。
おわり。