「ひとの安心をつくる」技術
少し前に、大切な友だちを、とある先生に紹介することになった。
ぼくには、自分の大切なひとが心を病んだとき、絶対にこのひとに診てもらいたいな!と絶対の信頼を寄せているドクターがいる。だけど、その先生は普段は、ぼくらの母校である地方の大学病院にいるので、数年前ぼくが上京してきてから、こっちで仲良くなったひとを診てもらうことができない。それで、すごく困っていた。
そのことを相談してみたら、関東にいるそのドクターの「お師匠さん」を紹介してもらえることになった。
それで、その友だちが「お師匠さん」であるK先生のもとに訪れるのに、同席させてもらった。とくに何かができるわけではないが、「友だち」としてその場に同席したかった。
そこで、友だちとそのお師匠さんとのやりとりをみて、ぼくは、「安心をつくる」ということについて、深く考えさせられた。
K先生は「安心」そのものだった。
ジェントルな佇まい。
挨拶のときの落ち着いたロートーンボイス。
ゆったりとしたピッチ。
話の端々から誠実さと豊富な経験をにじませる先生は、ひたすらに「安心」だった。
友だちが、凄惨な過去の体験を語る。
そこでK先生は、彼女の話している様子を頷きながら聴きつつ、
「今、一生懸命はなしてくれたけど、大丈夫?」
「いま、辛い話はできる?」
とやさしく声をかけた。
ああ、真に「ひとの話を聴く」っていうのは、こういうことなのだな。
彼女は、おそらくほとんど他人に話したことがないであろう、心の奥底の深くて辛い話を、一生懸命に語った。
彼女が話しきったあとに、先生は
「大事な話をしていただいて、ありがとうございました。」
とお礼をした。
そして、彼女のこれまでの人生についてを肯定し、受容した。
ぼくは先生の一連のふるまいに、ひそかに、衝撃を受けていた。
だれかの「安心をつくる」というのは、技術だとつくづく思う。
コミュニティをつくるにあたって、一番最初に必要なのはメンバーの「安心・安全の確保である」と、コルクラボで学んだ。
(WE ARE LONELY BUT NOT ALONEより)
ひとがひとと関係をつくっていく上での基盤になるのも、この「安心を設計する技術」だとおもう。
恋愛だって同じだ。
「このひとは、決してわたしを傷つけない、否定しない」という「心の安全」を確保した上で、そのひとのふるまいから人間性がイメージできてはじめて、「安心」できる。
そうなると、「先のことはわからないけど、このひとに身を委ねてみたい」という「信頼」に変わる。
「安全」→「安心」→「信頼」の順。
そして、ひとは誰かを信頼することを通して、予想できないことに挑戦したり、行動を変えたり、より遠くにジャンプすることができる。ひとりでは到達できない場所にも行けるし、ひとりでは得られないさまざまなものを得ることができる。
だから、「ひとの安心をつくる」という技術は、「医療」の文脈にも、「コミュニティ」の文脈にも、ひとが「幸せになる」という文脈にも共通する、超汎用的でウルトラ重要なコアスキルだとおもう。
見た目。年齢。体型や体格。態度。話すスピードやトーン、内容。受け答え。知識と経験。動き方、ふるまい。思想。そのすべてが、「そのひとに安心を感じ、信頼に足りるか」の判断材料になる。
まさに、なんでもありの「総合格闘技」だ。
いや、「総合芸術」に近いかもしれない。身につけてきたあらゆる知識や手段を用いて、ひとの心を開き、変化する基盤をつくる技術。
これがとんでもなく趣深くて、もうまったく飽きない。
まだあと10年くらいは、突き詰めていきたいんだよね。
じゃ、またね。
そうそう、サクちゃんと、「自己肯定感とはなんだろうね?」と語りあうマガジン「月刊・自己肯定感」もやっています。
有料であるってことが、書いてるほうの心の安心の確保につながっていると感じます。これも「安心をつくる技術」だよね。サービスをつくるひとは、すでにそういう技法をいっぱいもっているんだろうな。そういうのを、ラーニングしていきたい所存。