莫言=言ってはいけない。ノーベル賞作家黙殺される
莫言がノーベル賞を受賞した2012年、私はカリフォルニア州立サンフランシスコ大学の大学院で小説創作を学んでいた。私たち学生はひたすら、与えられた本を読み、語り合い、書いたものを見せ合い、それについてああだこうだ議論し、遂行し、再び書く。議論であげられた意見が果たして自分の作品に直接影響するのか?それはわからないが、刺激になる。創作学科の大学院生になって一番素晴らしいことはギルトフリーで昼間から書けることだ。学生だからと言い訳して私は働かなかった。散歩をし、小説(と息子の成長)についてだけ考え続けたその3年間は素晴らしく充実し不安でいっぱいの3年間だった。恩師であり大切な家族のような作家ピーターオーナーに会ったのもこの大学院だった。
「今年のノーベル賞は莫言」ピーターは毎年さりげなくノーベル賞をクラスで発表していた。その時私はなんとも思わず、莫言の作品すら手に取ろうとは思わなかった。
あれから9年たち、私は恩師であるピーターの推薦でアメリカの出版社にインターンとして入り、そのまま文芸編集部に雇われることになった。インテリ揃いが安月給で働くわりに競争率が激しい文学業界、アメリカ人でも雇われることが難しいのに英語を母国語としない移民の私は入社して3年になり、他の従業員から質問されることも多々あるほど会社に詳しくなっているベテラン平社員。奇跡である。
私の仕事の一つに送られてくる原稿に目をとおし、感想を編集者に報告することがある。その中にあった莫言の作品に衝撃を受けた。それは莫言の最新作の翻訳サンプルで短編集の一作だった。中国の昔の貧しい田舎町で図太く生きる人たちが生き生きと哀愁とユーモアを交えて描かれていた。あんなに短い短編でこれだけ多くのキャラクターが登場し、しかも全員が手にとるようにわかる。残酷な仕打ちをする人物でさえも誰一人として憎めない。あまりにもすごいので私は莫言について調べ始めた。するとノーベル賞を受賞した当時の新聞記事が続々と出てきた。賞賛よりもスキャンダラスで批判的な記事が多かった。ノーベル作家ならばもっと中国政府の共産主義について言及するべきである、彼は一体どう思っているのかという内容である。彼の作品、もしくは行いではなく彼の沈黙を批判する記事だ。
でも、少し考えればわかることではないだろうかというのが私の意見だった。誰が一体あの国にすみながら本音を言えるだろう。有名になればなるほどそれは難しくなる。ある記事には彼が"センサーシップは文学にとって素晴らしい”と言っていると載せていた。しかしその記事の元手をたどってみると、彼は創作クラフトについて聞かれていることに答えているのだった。
こんな感じのやりとりである。
確かに彼はセンサーシップは素晴らしいと言っている、しかし、これは制限の中から生まれるクリエイティビティーについて語っているようにも聞こえる。俳人が色々な制限から無限なる作品を生み出すのと似ている。
さらに彼に興味を持った私は彼の作品『蛙鳴(あめい)』を読むことにした。『蛙鳴』は主人公の叔母さんが熱心な共産党委員になり、一人っ子政策の最中に産婆さんから今度は中絶や避妊を推する人へと変わっていく様子を軸にした長編小説である。叔母さんの口から彼女が本当はどんな感情を持っていたのか作品から知ることはできない。しかし、私はある一文で立ち止まった。過去を回想しながら喋るおばさんがあの頃が中国の黄金時代だったと嬉しそうに主人公に言うのである。あの頃それは彼女がかつて産婆だった頃である。その一文はそのほかの色々な出来事の中に埋まっているのでゆっくり読んでいないとスポットできないが、全面的に政府を支持する人の作品に書く文とはとても思えない。物語はそこからどんどん話が脱線し、私の頭はグチャグチャになってゆく。ぐちゃぐちゃになって、途中だらけて、何を読んでいるのか忘れる。でも、その一文は忘れられない。その一文を人によっては忘れことも可能だ。この「人によっては」というのが莫言文学に取って大事なのである。全て読者に任せるのである。短編サンプル同様、物凄い人だなという印象を持った。
莫言がはっきり言っていることがある” I am writing on behalf of the people, not the party.” 彼の職業は作家で物語を描いて人々を楽しませること。
厳しいセンサーシップを潜って、厳しい自国にすみながら、その国民が楽しめる作品を描き続ける。国を出て書けばもっと自由に書けるかもしれない、でも彼はそれを選ばない。それは彼が彼の真理 I am writing on behalf of the peopleを貫いている。誰に何を言われようと、自分の意見を述べることなく、押し付けることなく、読者を信じて、物語を信じて書き続ける。私はそんな彼の姿を勝手に想像して泣けてきた。
莫言文学の素晴らしいところは読み手によって捉え方が変わるとことだと思う。センサーシップのインタービューひとつをとってもそうだ。本当に宝探しをしているみたいで面白い。
私は仕事のレポートに新聞記事、『蛙鳴』について、そしてもっとサンプルを読みたいと書いた。その後短編を送った相手からは連絡がまだない。多分このままアメリカでは発表されないままになるだろう。このように素晴らしい作品が翻訳に至らないことは本当に多い。この仕事をしているとわかる。むしろ、出版される方が奇跡に近いと。
それから数ヶ月たち、今度は日本の記事を見つけた。そこには莫言の作品が中国が選んだ過去100年の中国文学に入っていなかったことを伝えるものだった。記事には「国内では、莫言氏が中国社会を醜く描き国外で評価を得たとして"売国奴"と中傷する声も強まる。」とあった。
他国からも自国からも非難された作家はどこへ行けばようのだろう。人考えたけれど、きっと作家本人は何も思わないのかもしれない。だって彼は国へ作品を書いているのではなく、読者に書いているのだから。
小説の素晴らしいところは自分の思いを共有しなくて良いことだ。本から感じ取った感情は私のもので誰にも奪われない。そして、それは自分の中にだけしまっておける。たとえその意見が私の体の外では許されないことでも、心の中は自由で、誰にも束縛さず、思い続けることができる。莫言は書き手としてそれを知っているから彼のスタイルを貫くのかもしれない。
彼が今後も作品を発表する機会を奪われずにいられることを願う。
参考記事:
https://granta.com/granta-audio-mo-yan/https://granta.com/granta-audio-mo-yan/
https://www.economist.com/china/2012/10/20/a-chinese-dickens
https://www.theguardian.com/books/2012/dec/17/salman-rushdie-mo-yan-pankaj-mishra
https://www.theguardian.com/books/2013/feb/28/mo-yan-dismisses-nobel-critics
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB190WO0Z10C21A7000000/