選挙の投票率が低いことは憂うべきことなのか?
以前にも同趣旨の記事を投稿したが、改めてこの問題について問いたいと思う。
さすがに「投票率が低い方が好ましい」というのは、自分でも逆張りしすぎ、煽りすぎで少し滑ってたかなと反省しないわけでもないが、それでも、投票率が高すぎる選挙には問題がある、という持論は変えないつもりだ。
戦後の衆議院議員総選挙の投票率の推移を見てみよう。
1980年代までは比較的投票率が高かったが、1990年代に入ってから急激に投票率が下がっている。そして、1980年代までというのは、ほぼまるっと昭和時代であり、また自民党単独政権が続いた時代でもある。
この時代、衆議院は中選挙区制度が採られていたが、例えば5人区の場合1位~4位が全て自民党候補で埋まり、日本社会党の候補者が5位で当選、みたいな模様は全国いたるところで見られた。
現在も自民党1強などと言われているが、実際には公明党と連立を組まなければ政権を維持できない状況が長年続いており、昭和の自民党の強さに比べたら大したことはない。
それが、投票率が低下した1990年代に自民党が政権与党から転落し、細川護熙内閣が誕生したりして、不安定な政権が続くようになった。政権の流動性が確保されたという意味では民意が反映されやすくなったのかもしれないが、一方で政治家が政争に明け暮れ、バブル崩壊の後始末や少子化対策、氷河期世代対策などに腰を据えて取り組める環境が失われ、「失われた30年」の原因ともなった。
話を戻そう。投票率が高かった時代と、自民党単独政権時代は重なる。では、投票率が高かった時代は、日本の有権者の政治意識が高かったのだろうか?はっきり言って自分はその意見に違和感がある。
1952年、不正選挙を告発した生徒が村八分に遭うという事件があった。
要は、替え玉投票が横行し、選管もそれを黙認していたという話だが、これは氷山の一角だと思う。
自分は世代的な理由もあって、そういう経験をしたことはないのだが、昔の選挙は、町民同士、村民同士がお互いに監視し合っていて、選挙に来なかったり、革新系の候補者に投票したりしたら、村八分に遭った、という話を、小さいころに聞いたことがあるからだ。どうして誰が誰に投票したのかが分かるのだ?という疑問もあるにはあるが、自分はジャーナリストでもないし学者でもないので、そういったことを調査するコストは払えない。
だが、田舎の方では今でもそういうことは行われているらしい。
これが、「昭和の高投票率」の実態だ。
投票率の芳しくない現在と、どちらが民主的だろうか?
三春充希さんも投票率低下の分析をされておられ、特に50代以下の無党派層の増大がその理由であると指摘しておられます。
無党派層が選挙に行けば政治は変わる。確かにその通りです。だけど、良い方に変わるとは限らない。悪い方に変わることだってありうる。その典型がナチスドイツだということを、私は何度もしつこく繰り返し書いてきました。また、石破茂氏の言うように、無党派層を強制的に選挙に行かせたところで、良い変化はもたらさないということも書いてきました。
大事なのは、「投票率を上げること」でも「政権を変えること」でもないのです。「投票率が上がる可能性があること」「政権が変わる可能性があること」が大事なのです。両者を混同してはいけない。
以前も書きましたが、民主主義先進国のアメリカの中間選挙の投票率は決して高くないです。50%を超えたことが近100年間で一度もありません。
また、あまりに高すぎる投票率で負けると、負けた側は民主主義に絶望して暴力革命に走るのではないでしょうか。1960~70年代の過激派の数々の狼藉は、彼らが選挙を信用していなかったことも理由の一端にあったのではないかと思います。
もちろん、投票率は低ければ低いほど良い、などと主張するつもりはなく、例えば投票率30%とか投票率20%とかいうことになると、それはそれで低すぎますし、低すぎる投票率の問題点は私が言わなくても色んな人が色んなところでおっしゃられてると思います。
しかし、高すぎる投票率の問題点を指摘する人は、誰もいません。だからこそ、この私が、力量不足は承知の上でその役割を買って出ているのです。