野間さんがしばき隊を辞めるそうです。
田山たかしさんの記事で知ったのだが、野間氏がカウンターを辞めるらしい。
何か色々言っているが、なぜ辞めるのかがよくわからない文章だ。
ただ、書いてあることに対して思うことはあるのでちょっと指摘させてもらう。
横断幕における「Zainichi」という表記をめぐる「カウンター」の人たちの意見は、そうした過去の知の積み重ねを全く無視した暴論だったと思う。そして何よりも問題だったのは、その暴論を「当事者がやめろと言っているのだからやめろ」という言葉で正当化しようとした人が少なからずいたこと、そしてそれを咎める人がほぼいなかったこと、さらにはそれを言われた側にも「当事者」がいたことである。
これは、絶対にNGです。なぜなら暴力を招くから。
差別語であれなんであれ、言葉に関する議論では「当事者」はことの是非を決定する主体ではない。言葉に限らず、何が差別に当たるかも、当事者だけが決定主体ではない。「当事者が言っているから」「被害者が言っているから」は、それらを考慮するにあたって参考にする程度にとどめておかねばならない。それは多数者側にいる人は、なおさら矜持としてもっておかなければならないものだ。言い換えれば、責任をマイノリティに負わせるなということでもある。
要は、在日朝鮮人差別に反対する横断幕に「Zainichiを差別するな」みたいなことを書いたのに対して、当の在日朝鮮人が怒った、という話らしいのだが
①Zainichiという表記は別に社会的に定着したものではない。単にカウンター勢が勝手に考案したものにすぎない。よって変更を拒むほどの強い理由はない。
②一方で、その抗議した在日朝鮮人とやらは、果たして在日朝鮮人全体の意見を代表しているのか、という点に疑問がある。単に「一当事者」と言うだけで、他の当事者のコンセンサスも取らずに好き勝手なことを言う場合、それは単なる個人の意見であり「当事者性」は失われる。
③いや、その程度で暴力は招かないだろ普通。もし暴力沙汰が起きたらそれは100%暴力を振るった人物が悪い。
「言葉に関する議論では当事者はことの是非を決定する主体ではない」とする主張は、一面に置いては正しいと思う。「障害者と書くな障がい者と書け」とか「嫁って言うな」とか、そういう不毛なクレームが量産されるのは良くない傾向だと思う。だがそれも程度問題であって、例えば日本のことを「戦犯国」呼ばわりしたり、天皇のことを「日王」呼ばわりするような連中に対しては、日本人は当事者としてしっかり抗議していく必要があると思うし、抗議する権利が当然あると思っている。こうした呼称は、近年作られた、しかも最初から侮蔑を目的とした言葉だからである。
何が差別かを考えるうえで決定主体をマイノリティに委ねてはいけないということは、2013年以降のカウンター運動ではもっとも重要な大原則で、いま路上で「カウンター」をやっている人たちがそこを外しているのなら、私は一切同意できない。
いままでさんざん「差別を受けた者がそれを差別だと感じたら差別」とか言ってたくせに何を今さら。
解放同盟の糾弾闘争には正当なものも不当なものもあったと思うが、このテーゼに基づいた糾弾は100%不当なものだったと言うことができる。部落の当事者だけではなく、当事者以外がそれらに乗っかって個人を激しく「糾弾」した例も少なからずあっただろう。
それが恐怖の記憶となって、バックラッシュを正当化した。さらにそれは数十年後に、「在日特権」デマといういびつきわまりない変形となって現れたのである。
何を今さらまともなことを言ってるんだ。10年遅いわ。てか、野間氏は初期の在特会に参加してたんじゃなかったっけ(笑)
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