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知性がないのは白井聡さんのほう。世論を分断しているのは安倍ではなく「こんな人たち」のせい。

週刊SPA!に石黒隆之さんという方が寄稿されたコラムが、とても素晴らしいので、紹介したいと思います。

 こと安倍総理となると、なぜか多くの人が感情的になり、支持、不支持の立場の人たちによる過激な舌戦が繰り広げられるのは、おなじみの光景になりました。今回の発言に対しても、批判一辺倒ではなく、少なからぬ共感があったのも事実です。ですが、さすがに「早く死んだほうがいい」は言い過ぎでした。

 このように発言がエスカレートする背景には、安倍総理に対して強烈なアレルギーを抱き続けてきた人たちの存在があるのは言うまでもありません。ゆえに、“安倍総理を支持するなど、人倫にもとる”といったコンセンサスが醸成され、一定程度の賛同を得てきた経緯があるのでしょう。

いきなり核心を突いてます(笑)。

左派の人達は異口同音に「安倍が世論を分断している」と主張しますが、そもそも安倍総理にそんな力などあるはずがありません。

いかに絶大な権力を有する総理大臣と言えども、たった一人の人間の力で、世論を真っ二つに分断できる、と考えている左派リベラルの人達、どうしようもなく頭が悪い。

想像するに、韓国が総理の靖国参拝を「挑発」と解釈するように(我々から見れば何がどう挑発なのか全く理解できませんが)、左派リベラルの人たちにとっては、憲法改正に言及することや、日本が周辺国に対して一方的に謝罪しつづけなければならないとする価値観を否定することは、「左派リベラルに対する挑発」なのかもしれません。

仮に、この推理が正しい場合、それは挑発あたるから発言してはいけない、とされてしまうと、我々は何も主張できなくなってしまいます。声を上げることすらできなくなってしまうのです。

そして、左派の特徴は、右派との対話を徹底的に拒むことです。SEALDsの誰かが「敵国が攻めてくるというのならとことん話して酒飲んで遊んで食い止めます」と言ったそうですが、言ってることとやってることが全然違うのです。

(前略)要するに、多くの日本人が安倍政権を支持してきたのである。

 この事実は、私にとって耐え難い苦痛であった。なぜなら、この支持者たちは私と同じ日本人、同胞なのだ。こうした感覚は、ほかの政権の執政時にはついぞ感じたことのなかったものだ。時々の政権に対して不満を感じ、「私は不支持だ」と感じていた時も、その支持者たちに対して嫌悪感を持つことはなかった。この7年間に味わった感覚は全く異なっている。

 数知れない隣人たちが安倍政権を支持しているという事実、私からすれば、単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた。

どうでしょう。この筆舌に尽くしがたい不寛容さ。これが左派リベラルの正体です。

「あべしね」とツイートし、ブルドーザーで安倍人形を轢き殺すパフォーマンスを行い、安倍を呪殺するパフォーマンスを行い、「安倍はサタン」と叫び、「安倍は人間じゃない叩き斬ってやる」叫び、「安倍を吊るせ」「奇妙な果実にしちまおう」とツイートし、総理の応援演説を妨害し、女性議員の応援演説を集団による怒号で中止させ、「アベ政治を許さない」「安倍を監獄へ」などというプラカードを掲げ、こういった数々の愚行を「政権批判」の美名によって正当化させようとしてきたのが左派リベラルの正体です。

こんなの「こんな人たち」と言われて当然ですよ。

結果的に、安倍政権が長く続いたのも、「こんな人たち」のおかげでしょう。「こんな人たち」の数々の愚行を見たら、そりゃ一般の人は「こんな人たち」には近づきたくないと思うでしょうし、安倍総理に同情もしますよ。

話が大きく逸れてしまいました。石黒さんのコラムに戻ります。

 そのうえで、押さえておくべきは、ユーミンの安倍総理に対するシンパシーは、政治思想的なものとは異なるのではないのではないか、という点です。ユーミンと安倍夫妻がかなり前から親しいのは、周知の事実だからです。

 ユーミンの楽曲をフィーチャーし、バブル時代に『私をスキーに連れてって』(1987)などヒット映画を連発したホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫社長(66)と安倍総理は、成蹊の小学校~大学の同期で友人関係。
 そのつながりで、昭恵夫人(58)はユーミンの誕生日会にも招かれているそうだし、2017年12月には夫妻でユーミンの舞台を観たあと一緒に食事もしています。

 また、昭恵夫人は2015年から「私をスキーに連れてかなくても行くわよ」という’80年代風スキーイベントの主催者の一人。ユーミンが「価値観を共有できる」と言うのは、世代やライフスタイルの面と思われます。

 つまり、ユーミンの“涙”は、政治思想の右とか左とかのおおげさな話ではなく、親しい友人の辛い姿にホロッときてしまったぐらいのことと理解するのが自然でしょう。

要するに、ユーミンは政治的に安倍総理に共感しているのではなく、単に昔からの友人であるにすぎないということです。ユーミンに関しては鳩山夫妻とも交友があるという話もあり、政治的な話とは全く関係ないと言うことが分かりますね。それにしても安倍総理の人脈の広さには驚くばかりです。学業においては必ずしも目立つ存在ではなかった安倍氏が総理大臣にまで上り詰められたのは、おそらくこの人脈づくりの才能が人一倍秀でていたからではないかと愚考します。

矛盾する要素を受け入れることを、知性と呼ぶ

どこを引用しようかと迷いましたが、結局、この一言にすべてが凝縮されてますので、この一言だけを引用することにします。

つまり、白井さんは最初の謝罪声明の中で、松任谷由実さんの知性について言及されておられましたが、そもそも知性に欠けているのは白井さんのほうだということです。

矛盾する要素を受け入れることを、知性と呼ぶ

とても良い言葉だと思ったので、もう一度引用しちゃいました。この「受け入れる」というのは「是認する」ということではありません。「そういうもんだ」と理解して、事実を粛々と受け入れるということです。もっと分かりやすく言うと、願望で自分のメガネを曇らせない、ってことでしょうかね。

願望でメガネを曇らせてしまうと、安易に陰謀論に飛びついたり、差別的な発想になってしまったりするのです。例えば9.11自作自演説に飛びつく人は9.11が米政府の自作自演であってほしいという願望を吐露しているだけですし、田布施システム説に飛びつく人は、明治天皇が替え玉であってほしいという願望を吐露しているだけですし、リチャード・コシミズ氏の不正選挙説に飛びつく人は、ただ単に選挙結果を受け入れられないだけですし、日本人が大きな犯罪を犯すたびに「あいつは在日」などという人は、犯罪者はみな在日外国人であってほしい人、でしかないのです。

私も願望でメガネが曇っていることは多々あると思います。そして、そのことに自分で気づくのはなかなか難しい。なので、常に自分を疑い、対立する意見にもなるべく目を通し、誤謬を恐れず自分の意見を公表し、間違いに築いたらすぐに自分をアップデートしていくことが大事なのかなあ、と思います。


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