「国」って誰?
「戦争のできない国」は戦争を回避できるか?
この手の「国が国民に戦争を強制した」という論調はよく見かけるのですが、そもそも「国ってだれ?」って問いに答えられてないと思うんですね。
国=天皇でしょうか?
それとも、国=総理大臣?
私は、「トルーマンの原爆投下」を批判しますが、それを「アメリカ合衆国の戦争犯罪」とは思っていません。当時まだ生まれていない現代のアメリカ人に戦争責任などあるはずがないし、たとえ当時のアメリカ人であっても、99.9999%くらいは、実際に原爆が広島・長崎に投下されるまで、そんな計画があったことすら知らなかったはずです。
「国が悪い」という主張は、かえって責任の所在をあいまいにしてしまうと思います。じゃあ「東條英機が悪い」ならどうか?むろん、東條の責任は大きいと思いますが、100%何もかも東條が悪いというのも違うでしょう。
当時の日本は、「政治家=悪者、軍人=英雄」みたいな空気がはびこっていました。それは、国が国民に強制したわけではないし、国が国民を洗脳したわけでもないです。5.15事件や2.26事件でも、国民世論は被害者である政治家たちよりも、加害者である軍人たちの側に寄っていました。
もっと言えば、日露戦争に勝利してから、日本には国粋主義的な主張が蔓延していました。その典型が、日比谷焼き討ち事件でしょう。
大国であった清やロシアに打ち勝ったことで、日本軍は最強で無敵で無謬の存在だという妙な信仰が、当時の日本国民に芽生えてしまったのでしょう。
この、日本軍に対する妄信的な信頼が、政府のコントロールを弱め、軍の暴走を許してしまった最大の原因です。
つまるところ、日本を戦争へと突入させた最大の要因は、その当時の日本国民の民意であり、あるいは空気であり、あるいは日和見派にとっては、それは同調圧力だったかもしれません。それを全て何か1つの責任に帰するのは、物事の本質に繋がらないと思います。
アメリカは違います。アメリカ国民はむしろ厭戦気分が蔓延していました。だから、アメリカの戦争責任は概ね為政者や軍人に帰するものです。
さて、現在、日本に戦前のような好戦的な空気が存在するでしょうか。私は、ないと思います。自称リベラルの一部に「勇ましいことを言うネトウヨが増えている」と危惧する人はいますが、彼らと議論をしても意見が噛み合うことはないでしょう。彼らは「普通の国」という言葉にすら強い拒絶反応を見せるので、すぐに分かります。
つまるところ、現在の左右対立の最大の軸は、国防観であり、憲法9条に対するスタンスです。今の日本に戦争をしたい人なんてどこにもいません。誰もが平和を望んでます。なのに、「平和主義」の看板を特定一部の勢力が独占し、彼らの主張に少しでも反論しようものなら「ネトウヨ」「国粋主義者」「軍国主義者」「歴史修正主義者」などと人格攻撃をして、「日本を戦争する国にするつもりか!」などと食ってかかり、冷静な議論を拒否する。「安倍は日本を戦争する国にしようとしている」「安倍政権の下での憲法改正に反対」などと言って、両派の感情対立ばかりを煽る人たちがいる、というのが現実です。
彼らの目的は分かりません。本気で9条が戦争を防いでいると盲目的に信じているのかもしれないし、単に政権攻撃に使えるから便乗しているのかもしれないし、中国等からお金をもらって世論工作しているのかもしれないし、他の理由もあるかもしれない。多分、どれも全部あると思います。「護憲派」が全員同じ考え、同じ理由で「護憲派」になっているはずはないですから。
安倍政権は、そういう意図があるのかどうか分かりませんが、結果的には、そういった勢力の反対運動によって延命しているという側面はあると思います。だって、9条を本気で信じている人たちなんかに政権を委ねたら、とても危ないですもの。国防を軽視し、日米安保を軽視するような人たちに政権を預ける選択は絶対にできません。
現在の野党、特に立憲民主党や日本共産党などは、もしも仮に国防や外交問題をうまく争点にしないようにして政権を取れたとしても、政権を取れば国防や外交問題に対して否応なく態度をハッキリさせなければならなくなるので、絶対にその政権は短命に終わります。
さて、だいぶ脱線しましたが、「国のために命をささげる」という行為が、戦後なくなったのかというと、そんなことはありません。例えば、1972年2月、長野県の浅間山荘に立てこもった日本赤軍から人質を救出するため、警察は急遽、決死の救出部隊を編成。山荘に潜入し、作戦を実行しました。その結果、犯人側に犠牲はなかったものの、警察官2名は死亡しました。この2名の警察官は、まさに「国民の命を守るために自らの命を犠牲にした」わけです。
そんな古い事例を持ち出さなくても、もっと最近にもそういった事例はあります。東日本大震災で、一人でも多くの命を救うために最後まで住民を避難誘導しつづけて亡くなった警察官がいました。
彼もまた、国のために、国民の命を守るために亡くなったわけです。
私は、「国民は皆、国のために命をかけろ」なんて言うつもりはないですし、そういう考えには明確に反対します。しかし、だからといって、「国のために命をかける」という行為自体を侮辱したり、「国のためと、国民のためは違う」などと言うのは、間違ってると思います。
私がもしもこの警察官と同じ立場だったら、セウォル号の船長みたいに、真っ先に逃げていたかもしれません。だから私はセウォル号の船長を非難する気にはなれません。でも、だからこそ村上巡査のような人物は尊いのですよ。私やセウォル号の船長みたいな人は凡人であり、村上巡査のような人は聖人なのです。
ここで注意してほしいのは、警察や軍が尊いのではなく、村上巡査という個人が尊いということです。彼の偉大さは彼個人に帰するべきであり、これを軍や警察の偉大さだとはき違えてしまうと、また戦前のような勘違いを引き起こしかねません。
話が逸れました。たとえ世界が完全に平和になっても、万が一のとき自分の命を投げ出す覚悟を持った人たちの集団・組織は、少なくとも現在は、まだまだ必要です。将来的にはその役割は人間ではなくロボットが担うことになるかもしれませんが、そんな日は一朝一夕には訪れてくれません。
現状、戦争を回避し、あるいは戦争を阻止できる能力を持つ国家というのは、残念ながら「戦争のできる国」だけです。したがって、「日本を再び戦争のできる国にしようと考える政治家」こそが、真の平和を実現させる力を持つ有資格者なのです。
力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力です。
軍事力なき平和主義は無力であり、平和主義なき軍事力は暴力と言い換えても良いでしょう。
幸い、今の日本人は1億2千万人ほぼ全員が平和主義者です。だからこそ、日本は憲法9条を改正し、世界に向けて再軍備を完了したと宣言するべきなのです。日本に対してやましい考えを持つ国以外は、これを歓迎するでしょう。
もしも日本が、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思うのであれば、憲法9条は絶対に改正しなければなりません。この考えを否定する人は、私は護憲派ではないと思います。
私達は、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのです。
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