SNSは「社会の公器」か?
私達はすでに10年以上前から「2ちゃんねる」で、いわゆる運営の専横的なふるまいを経験しているし、あるいは「mixi」でも、それぞれのコミュリーダーによる独裁的なふるまいを経験してきた。
にもかかわらず、これらの有力なライバルとなるようなサービスは長年現れなかった。結局のところ、いくつもサービスが乱立しているよりも、みんなが同じプラットフォームを利用するほうが便利だからだ。
ただし、結局のところ、管理しすぎても人は窮屈に感じてサービスを利用しなくなるし、放任しすぎても人は荒れ果てた環境に嫌気がさしてサービスを利用しなくなる。2ちゃんねるは下火になり、mixiはほぼ完全に廃れた(まだサービス自体は継続している)。
しかし、それは「逃げ場」があれば、の話だ。人は何かを表現し、何かを発言する欲求を、ある程度抑制はできるかもしれないが、完全に摘んでしまうことはおそらくできない。2ちゃんねるやmixiから逃げた人が行きついた先は、Twitter、Instagram、facebook、TikTok、YouTubeなどだ。
え、ずいぶん色々あるじゃねえか、という人もいるだろうが、このうちInstagramは写真投稿に特化したサービスであり、TikTokとYouTubeは動画投稿に特化したサービスなので、テキストベースのサービスは事実上、Twitterとfacebookくらいしかない。もちろんInstagramやYouTubeなどでテキストベースの表現をやろうと思えばできないわけではないが、そんな効率の悪いことは普通は誰もやらない。
なので、この手のサービスは「勝ち組」の勝ち方が半端ない。だいたい市場を独占してしまう。一度雌雄が決してしまうと、独占的なサービスの圧倒的牙城を崩すことはほぼ不可能になる。こうして既得権が生まれる。
インターネット黎明期の「無法地帯」とすら言われたほどの自由を謳歌していた私も、いつかネットもだんだん自由がなくなっていくだろうなあ、と予想していた。予想というか、2ちゃんねるですら徐々に自由が失われていく様を見ていれば誰でもわかりそうなものだけど。そして今まさにその予想は的中しつつある。
Twitterで「nowhereman134」と名乗る人物と「国家権力」について何度も議論したが、彼は「私権力が国家権力を超える」という概念を理解することができず、最後は結局罵倒合戦になってしまった。
しかし、Twitterやfacebookが、いくら退任直前とはいえ現職大統領のアカウントを停止したという事態は、いよいよ私権力が国家権力を超えたか、と思わずにいられなかった。
もちろん、Twitterやfacebookは軍隊のような暴力装置は持ち合わせていないので、米国政府がその気になれば軍隊を動かして強制的にアカウントを復活させることも論理上はできたかもしれない。しかし、それは「米国政府」という統一された人格が存在すれば、の話だ。実際には、「米国政府」という人格は存在せず、トランプ氏は独裁者ではなかった。
中国のように民意を力ずくで抑え込める国ならいざ知らず、米国や日本のような民主主義国の「国家権力」は、特定個人ないし少数の意思によって動かせる類のものではなく、ナチスドイツのように民意が暴走しない限り国家権力が民意を離れて勝手に暴走することなどないのだ。
(もちろん個別のケースでは「国家権力」が暴走することもあるが、民意が正常であるうちは、国家権力が全体的に暴走することはない、という意味です)
国家権力が暴力装置を「持っているけど使えない」のであれば、少なくとも私企業にとっては、その暴力装置は存在しないのと同じであり、何も恐れることなどないわけだ。だからTwitterはトランプ氏のアカウントを停止できた。
そして、Twitterのこうした決断は、その決断を支持する民意によって支えられている。フェミニストやアンティファ、ポリコレ警察など、表現規制に賛同する人たちは意外なほど力を持っている。
国家であれば、たとえ民意がそうであっても、憲法に反することはできないという建前(立憲主義)が存在するが、Twitterやfacebookは「営利企業」という建てつけなので、民意がそれを支持するならばトコトンまで行きつくだろう。
もっとも、Twitterの決断に対しては批判の声も決して少なくないので、現在の「暴走」がそのまま続くとは思わないし、揺り戻しもあるかもしれないと思っているが、それでもSNSサービスが今後ますます影響力を増していくことは間違いないと思う。
しかも、それを運営しているのがGAFAなど強大な企業ばかりなので、2ちゃんやmixiが衰退したときのような「乗り換え先」もないような状態が続くことになる。
ノブレス・オブリージュという言葉があるように、富める者は社会的責任を負わなければならない。GAFAやTwitterが今後もただの営利企業であり続けることは許されない。まさに「社会の公器」としての責務を担っていただかなければならないことになる。
ただし、これは理想論であり、現実的に、彼らに社会的責任を負わせる強制力は、どこにもないのだ。もしもあるとしたら、我々国民の民意だけであるが、民意は暴力装置を有しないので、「我々の民意が反映された国家権力」にそれを代行してもらう以外にない。少なくとも、SNSの権限強化を望む民意が反映された国家権力など、絶対に作らせてはならない。つまり、世論戦で表現規制推進派に負けることは絶対に許されないということだ。
ああ、ちなみに、さっきから「暴力装置」って言葉を多用しているので、軍がSNS大手に乗り込んで経営者らに銃口を向ける、みたいなイメージ持ってしまった人がいたとしたらそれは誤解ですのであしからず。法治国家の暴力装置は法律に基づいてしか動かせません。つまり、SNS大手企業に対して何らかの法的圧力をかけ、従わないなら警察(警察も暴力装置です)がお宅の会社を摘発しますよ?とすることが、SNS大手の暴走に対する抑止力になるし、もっと言えば、法律など作らなくても、「君たちがおかしなことをしたらSNS運営の責任を強化する法律を作るからね」というプレッシャー自体が抑止力になる。