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BLM から YLDへ 人種差別を考える


 BLM(ブラック・ライブズ・マター 黒人の命も大切だ)という言葉は多くの黒人の犠牲の末、世界中に広がった。BLMという言葉を免罪符に黒人犯罪者に対しても「黒人を守れ!」というのはおかしな話だが、少なくとも人種差別の根絶への小さな一歩にはなったと思う。アメリカの良心・底力ここにあり、である。

 と思っていたら最近のアメリカ国内ではアジア人に対するヘイトクライム横行しているらしい。確かに白人以外のマイノリティに対する差別はアメリカでは長年の問題であった。その差別を解消すべく、いや、自分たちが差別主義者ではないと証明すべく政府やマスメディア、映画業界や音楽業界までもが「ポリティカル・コレクトネス」を意識し、マイノリティに過剰にスポットライトを当てるようになってしまった。マイノリティにスポットライトをあてさえすれば「自分たちは差別をしていない」と勘違いしてしまう。賞レースなどでは「白人が優勝すると批判される恐れがある。よって白人候補は対象から外す」まさにラビット・ホールに落ちた状態。それが今の米国の現状だと思う。


 ちなみに新生スパイダーマンは黒人とヒスパニックのハーフだし、90年代に大ヒットしたアニメ・パワーパフガールズの実写版「Powerpuff」(2022年公開予定)ではバターカップ役にヤナ・ペローがキャスティングされているが、これらは「ポリティカル・コレクトネス」の影響があったにせよベストマッチのような気がする。見ていて何の違和感もない。日本の時代劇で、シュワちゃんが殿様の役をやったら不自然だが、スティーブン・セガールならいける気がする。マツコデラックスはダメでも、天海祐希ならOKか?やっぱり松平健でないと・・・・といった様々な意見がある中で何が正解かは誰にもわからない。もしかするとこの「違和感」こそが差別の原因なのか?無意識のうちにシュワちゃんを差別している?そうなると「ポリティカル・コレクトネス」なる最大公約数的な指標に頼ることこそが正解なのかもしれない。

 現実の話に戻そう。アメリカの履歴書には人種、性別、年齢は記入しない。記入することは法律で禁止されている(モデルや俳優等例外あり)。配偶者の有無も書かない。顔写真も不要。雇用主が欲しいのはその人の能力であって、それ以外のものは判断基準にならないから・・・・・というのが表向きの理由だが、実際には面接があるのであまり意味はない。これを「差別がなくなった」ととるか「ポリティカル・コレクトネスを隠れみのにした差別」ととるかは人次第である。

 アメリカだけではない。日本でも男女差別が騒がれて久しい。関東・関西圏の鉄道各社が痴漢防止のために導入している「女性専用車両」や、映画館・飲食店が実施している「レディース・デイ」に対して「逆差別だ」と叫ぶ人がいる。男性だけではなく、女性側からも声が上がっていることが興味深い。これが進んで「シニア割引反対!」「子供料金反対!」という声があがる可能性もある。行きつく先は「人か、人以外か」という線引きになるのかもしれない。幸いなことに犬や猫は喋らない。宇宙人も今のところ地球に来ていない。が、100年後どうなっているかは誰にもわからない。「ポリティカル・コレクトネス」が「マンマリアン(哺乳類的)・コレクトネス」「ギャラクティック(宇宙的)・コレクトネス」になっていてもおかしくはない。


 差別問題は難しい。「差別は禁止だ。BLM!」と叫んでいた人の一部が、今はアジア人をターゲットにして攻撃している。ここでアジア人が立ち上がって「YLM(黄色人種の命も大切だ!)」とするのは簡単だが、アジア人が新たなターゲットを見つけてヘイトクライムに走る可能性も残る。となるとここは原点に立ち戻って「ALM(すべての命は大切だ)」といきたいところであるが、残念ながらALMは今は別の意味で浸透している。


 Yellow Lives Doomed(黄色人種の命は風前の灯です)


 と、ただ嘆くしかないような気がする。


 注) YELLOW を「アジア人・黄色人種」という意味で使用しておりますが、蔑視等の他意はありません。Caucasian(いわゆる白人)が African American(いわゆる黒人)に対して「Black」というと差別になる可能性がありますが、African American が自身のことを「Black」と呼んでも差別にならないのと同じです。

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