多氏と天津甕星香香背男
私の産神社
澳津説神社(おきっせ)
御祭神は事代主命と宇賀御魂命の二柱
常陸國の歴史
天津甕星と武甕雷の戦い
各地に鎮座されている神々には歴史がある。
神社の創設された時代が違うもの
途中で名前を変えられた神社がある。
江戸時代には、神社がお寺になったり、逆に神社がお寺になったり、長い時間の中で少しづつ歴史が変わってきた。
私の住む茨城県という場所の歴史は古く
大和国の神々が東征してくるまでにも、この地を守っていた国津神がたくさんいた。
その中でも有名なのは天津甕星の長である天之香香背男(大甕倭文神社の御祭神)
鹿島地方に武甕雷命を祀る鹿島神社の歴史も歴史は古く、昔から住んでいた国素クズの事が常陸國風土記などに書かれている。
その後、大和国の国家統一の流れの中で九州よりやってきた大生オフ(=多氏)の一族が国素達を倒して平定しました。
その後、大生から中臣(のちの藤原)の一族へ祭事が変わっていきました。
大生(=多氏)達は海と川を渡り那珂川の上流まで勢力圏を伸ばしていきます。
オフは飯富とも書きます。
水戸にある飯富町
ここにオフと関係する神社として那珂川の西側には大井神社、対岸の東側には国井町の鹿島神社
どちらもオフの祖神、武甕雷と建借馬命を祀っています。
土着の神だった香香背男と武甕雷達の戦いの歴史が見えてきます。
東征という言葉を聞くと悪神を倒す勇敢な大和民族のイメージがある。
しかし、土着の民からすれば侵略となる。
勝てば官軍、後の歴史は勝者の歴史である。
香香背男は悪神や邪神として祀られている。しかし、地元では香香背男を大切に祀っている。
天津甕星=海洋民族であり土着になった縄文人
天津神=出雲や大和(世界からリターンした渡来人たち)
それらが融合して現代の日本人になっている。
神話では国譲りとして語り継がれている。
争いの形ではなく国譲りとなっているところが日本人らしいところだ。
奪われた側も恨むことなく調和した国を作ってきた。
現代に甦る古い土着の民たちのお話し
その中には、今は何か違う要素に変容したが残るものが沢山ある。
中央の大和国からみたら敵対する国にいた数々の中央に従わない=まつろわぬ神々たち
今は、歴史の中に埋もれた存在
だが、そのピースは数々の歴史書や地域の由緒や地名などに痕跡は残る。
天津甕星香香背男=天背男
まつろわぬ神として大和国を追われた長
登美長髄彦
海流され、東北に流れ着いた
蛭子=ヒルコ=エビス=蝦夷
出雲国からやってきた富の姓を持つ一族
飯富、多氏、大氏
これらは、その後の国譲りという流れの中で歴史の闇に埋もれていった。お隠れになった神々である。
それらの流れをわかりやすく考察した動画があったので、最後にご紹介したいと思う。
もう一つ、これらを繋ぐ鍵🔑
饒速日と共に降臨した32柱の神々