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防府読売マラソン2020
12月20日に防府読売マラソンを走ってきた。
福岡国際マラソンから2週間・・・
福岡国際マラソン、2時間19分44秒で無事にゴール、後半のスピードダウンをなんとか抑えながら、2時間20分だけは切ることができた。本当に貴重な経験をさせていただき、ランナー冥利に尽きる。応援ありがとうございました。 pic.twitter.com/q8k055USGE
— 牛山純一 / USHIYAMA Junichi (@jun1ushiyama) December 6, 2020
この短い期間に2本のマラソンを走ることは、私にとって初めての経験だった。
ただ、当初から12月にマラソンを2本走ろうと思っていたわけではなかった。
今年は、ほとんどのマラソン大会が中止または延期となる中で、福岡国際マラソンと防府読売マラソンだけが開催する方向でスタートした。
ただ、どちらの大会も規模を大幅に縮小しての開催を余儀なくされており、エントリーの際に自分が出場できるのかどうかが分からない状況でもあった。
今年の防府マラソンの開催要項の中で、参加資格者は、招待選手(若干名)と実業団登録者(100人くらい)と山口県民(300人)ということだった。
実業団に所属していない私にとって、実業団登録は必要ないというのが、こだわりの美学だったが、実業団登録をしなければレースにも出られないと思うと、手段を選ぶわけにはいかなかった。
全くこんなことは初めての体験だ。
出場の決定が決まったのは、10月下旬。
福岡国際マラソンも、防府読売マラソンも出場できるということで通知が届いた。
ありがたい結果だった。
しかし、それと同時に、両方とも走れるのかという不安もあった。
福岡国際マラソンを終えてからのダメージは予想を上回るものだった。
それは、力を出し切ったというよりも、今年のシーズンのロードレースが全て中止になったことによる影響が大きかったのかもしれない。
福岡国際マラソンを走った翌朝は、JOGをしているときに2,3mmの段差に足をつまづいて転びそうになったくらいである。
正直言って、防府はやめるという選択肢もあった。
2週間で万全の状態に持っていく自信が無かったからだ。もっと言えば、普段通りの状態まですらも持っていく自信も無かったと言ってもいい。
それでも、気が付くと私は防府読売マラソンを走りたいと思うようになっていた。
きっかけは、NN Running Teamの福田穣選手だった。
復活しました。
— Jo Fukuda【福田 穣】 (@jo_fukuda) December 9, 2020
まだ若干の打撲痛はありますが、ジョグができるくらいにはなりました。沢山のご心配ありがとうございます!
防府は出場します‼️
頑張ります🏃♂️🔥#防府読売マラソン#NNRunningTeam pic.twitter.com/qhAENl0jvX
福岡国際マラソンが終わって、私は彼のファンになっていた。
なぜか?
カッコイイからである。
また、福岡国際も防府読売も同じナンバーカード(No.75)だったというのも、何か運命的なものを感じた。
福岡国際マラソンから防府読売マラソンまでの2週間は、たいしたトレーニングはできなかったが、だからと言って、そこに不安はなかった。
いつもそうだけど、思い通りにいかないときの方が、私は走れるような気がしている。
軽量コンパクトなハーフパンツの最大の魅力は着心地の良さなんかじゃない。理想的な形状・デザインによって実現する断熱性能だ。ハーパンのプライドにかけても、タイツやランパンに負けるわけにはいかない。と言いながら、-3度の中で1600mを走ったら、めっちゃ寒くて、キロ3が精一杯だった。 pic.twitter.com/RnhDvAevlJ
— 牛山純一 / USHIYAMA Junichi (@jun1ushiyama) December 16, 2020
それは、言い方を変えれば「根拠のない自信」ということになるのだが、この「根拠のない自信」を侮ってはいけない。
なぜならば、「根拠のない自信」の正体は、「未来や可能性を信じる自分自身」だからである。
マラソンは、メンタルの要素が占める割合が少なからずある。
トレーニングなんて、強くなった気分になることが最大の効果なのではないかと思うくらいだ。
「とことん信じる」ことができれば、「信じる力」が根拠になるのだ。
山口県に到着したのは、レース前日の午後だった。
今回は、前日受付が無いということで、トータルバランスを重視して、新山口駅の近くにホテルを取った。
それは、県庁所在地である山口市の方が、防府市よりも食事や物品調達において有利だと見込んでの判断だったが、驚いたことに新山口駅の近くには吉野家もやよい軒もない。
これは、大誤算だった。
防府駅付近には、吉野家もやよい軒もイオンもあることを思えば、ホテルは防府駅周辺に取るべきだったと思う。
また、スタート時間が12時過ぎだったので、ホテルは朝食付きのプランを選択していたのだが、マラソン当日の朝食のメニューは、トマトピラフだった。
私は、あまり食べるものにこだわる方ではなく、白米と漬物があれば100点満点を付けてしまうくらいなのだが、流石にトマトピラフは大誤算だった。
同じホテルに泊まっていたランナーは、朝食のメニューを見て、ホテルの朝食をキャンセルしていたくらいだ。
私は、トマトピラフが嫌いなわけではないが、いつもよりも食べるのに3倍くらいの時間がかかったように思う。
さて、今回のレースはどのくらいのタイムで走るのか、どうやって走るのかということは、あまり考えていなかった。
先頭集団が、3分6秒/kmくらいのペースでいくという情報は聞いていたが、そこに付いていこうとは思っていなかった。
スタートしてから、周りの流れに身を任せていくくらいの気持ちでいた。
しかし、実際にはレースが始まると、私は先頭集団の最後尾を走っていた。
そんなに集団のペースが速く感じなかったこともあるが、気付いたときには前にも後ろにもいけないような状況だったというのが本音である。
5km通過が15分28秒、10km通過が30分49秒と、自分にしてはハイペースで走っていたが、福岡国際のときの3分10秒/kmのペースよりも、はるかに走りやすいペースのように感じた。
これは、頭文字Dでエンジンを乗せ換えたハチロクのコントロールに苦戦していたときに、回転数を上げることによってパワーが出て、コントロールできるようになったのと同じような理屈なのかもしれない。
大勢の集団の最後尾ということで、走りにも集中することができていたように思う。
17kmくらいまでは、先頭集団の最後尾に付いて走っていたが、17kmのスペシャルドリンクを飲んだ後に10mくらい離されていることに気付いた。
スペシャルドリンク付近で、集団のリズムが変わることはよくあるのだが、わずかに開いた差を縮められるほどの余力は無く、そこから一気に離されてしまった。
1人になると、3分4秒/kmくらいから、3分20秒/kmくらいのペースまで一気に落ちてしまった。
まだまだ中間点(ハーフ)の手前である。
このとき、このままだと後半はものすごく苦しい展開になることを覚悟した。
それから3kmくらい走っていたら、後ろから実業団のランナーがやってきた。
苦しいながらも、その実業団ランナーの後ろを走らせてもらうと、ペースは3分12秒/kmくらいまで回復していた。
折り返し地点(30km手前)の近くまで引っ張ってもらったおかげで、だいぶ楽に走ることができたと思う。
30kmからは、福岡国際マラソンと同じようなペースだったが、そのときよりは余裕があったと思う。
単独で強い向かい風を受けながら走るのは大変だったけれど、その分追い風のときもあったので、それほど気にはならなかった。
35kmくらいには、友人が応援にきてくれていた。
本日は軽いjog、参加者2名
— 塚本秀志 (@Shuzys_Zoo) December 21, 2020
45’jog
昨日は、長野県の友人が防府マラソンに出場する為防府まで出掛けた
沿道での声援は自粛しないといけない事から、ドライブだと言うていにし、アリバイ工作に後輩たちも道連れ、且つ道中色々と立ち寄った挙げ句にたまたま声念(せいねん)を送ってきた
知らんけど pic.twitter.com/hvc707Qmd1
これは、かなりのチカラをもらったように思う。知らんけど。
それと、今回はスペシャルドリンクがしっかりキャッチできたことも大きかった。
福岡国際のときの反省を生かして、目立つように工夫したつもりだったけれど、他の人のドリンクボトルが凄すぎて、全然目立っていなかった。
もっと自己主張させてもいいように思う。
今回、最後のスペシャルドリンクは39km地点、ここにはコーラを配置していたので、37kmくらいから楽しみで待ち遠しかった。
私にとって、終盤に配置するコーラは「最終突撃命令」を意味している。
しかし、コーラを飲んで、走りを切り替えようとはしたが、ペースが一気に上がったわけでもなかった。
多く見積もって1,2秒、これは大誤算だ。
それでも、そのペースを維持したまま、無事にゴールすることができた。
タイムは、2時間17分34秒。
自己ベストを54秒更新することができた。
後半の落ち込みが、福岡国際とあまり変わらなかったことを踏まえると、前半のハイペースが、タイムに繋がったのだろう。
そして、もう一つ。
私は、レース前に緊張することはほとんどなく、いつもレース前日の夜もぐっすり眠れる人なのだが、今回は前日に一睡もできなかった。
ただ、そういうときは身体が全然疲れないのだ。
2,3年に一度そんな状態になることがある。(前回は2019年の縦断駅伝のとき)
今回はちょうどそれが重なったように思う。
福岡国際マラソンの2週間後に、自己ベストで防府読売マラソンを走るというシナリオは自分自身にとっても想定外だったことを申し添えておきたい。もちろん大誤算だ。
さて、今回もたくさんのランナーと再会することができた。
今回見事に優勝を果たした丸山くん。
実はスタートした直後に、走りながら少し話したのだが、「牛山さん、もっと前行かなくていいんですか?」と言われた。前半は集団の後方について、全体の動きをよく見ている彼が流石だと思った。ゴールしたときに、月桂冠を頭に乗せている彼と目が合った。「勝った?」と聞いたとき、嬉しそうに頷いた姿を見たら、私も嬉しかった。
同世代のライバル、河野くん。
彼も、福岡国際からの連戦。スタート前に「身体動きそう?」と尋ねたときに、「身体は動かすものだから」という彼の一言は結構響いた。
2時間20分切りを達成、樽木くん。
ゴール直前で、嬉しそうに走る彼を見たら、私も嬉しい気持ちになった。
吉野家にいた板橋くん。
富津に住んでいるらしい。羨ましすぎる。
7年前くらいの長野マラソンで一緒に走った岩村さん。
雪の中の長野マラソンで、風除け&ペースメーカーということで一緒に走ったとき以来の再会。
クレイジーな人。
対抗するなら、私はデンジャラスな人である。
そして、塚本さんとそのお仲間。
そして、イカの姿造り。
ゲソを天ぷらにしてもらったら、美味しかった。
悔いが残るのは、福田穣選手と写真が撮れなかったことだ。そのためには、もっと強くなるしかないということだ。
最後に、地元に帰ってきて、今回の記録が56年ぶりにフルマラソンの諏訪記録を塗り替えたということを知った。
今までの諏訪記録は、唐沢君雄さんが1964年に朝日国際マラソン(現在の福岡国際マラソン)で出した2時間18分10秒。
1964年と言えば、東京オリンピックが開催された年でもある。
56年前にそのタイムで走った唐沢さんがいかにすごいか痛感せざるを得ない。
唐沢さんは、長野県長距離界の大御所の一人であり、数々の伝説を残している。
駅伝で1区を担当したときに、タスキを宿舎に忘れてきてしまったため、近くにいた係員のネクタイに目を付けて、それをタスキに代用して走ったエピソードは、発想の転換力を物語っているし、もはや長野県長距離界の伝説でもある。
また、青東駅伝のときに、青森県内の一方通行の道路を逆走していて地元警察に追われたときも、警察官に「ここに行きたいのだけれど」と道案内を頼んで、道案内をさせつつ、そのまま回避してしまったというエピソードもある。
他にも、常人には思いつかないような、奇想天外の発想には、幾度と無く驚かされたように思う。
唐沢さんは、私が初めて福岡国際マラソンに出場したときに、何かの勉強になればと言って「福岡国際マラソン50年史」を私に貸してくれた。
ここ数年会っていなかったが、借りた資料を返しに行かなければと思っている。
そのときは、唐沢さんのとっておきのエピソードを聞かせてくれるに違いない。
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