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特攻隊員の孫であるぼくがここにいる訳

今年の8月15日で戦後75年を迎える。戦争を体験した人から直接話を聞けるおそらく最後の世代として、自分のおじいちゃんが話していた戦争の記憶をここに記しておこうと思う。

これは小学校の頃ぼくがおじいちゃんの家に泊まりに行った際に、布団に一緒に入りながら聞いたものである。覚えている内容をできるだけ間違いのないように、脚色もしないように記載している。

おじいちゃんの話

戦時中、おじいちゃんは他の大勢の人と同じように軍国教育を受けていた。日本は正しいと思っていたから、その内容を全く疑うこともなく、十八歳(くらい)になって軍人として招集された時は喜んだそうだ。その時、いろんな人にその喜びを伝えお祝いを言われるが、いつも応援してくれるおじいちゃんの母親だけは全く喜ばなくて、初めて違和感を感じたそうだ。

おじいちゃんの赴任地は確か九州の鹿児島だった。南方からアメリカ軍が進軍してきており、本土の最南端の鹿児島にアメリカ軍が上陸するのでそれに備えるということであった。

与えられた任務は、海岸に穴を掘ってそこに隠れて、戦車が近づいてきたら爆弾を持って体当たりして爆発させる、つまり「特攻」である。でもそんな訓練にも特に疑問を感じることはなかったようだ。

ぼくの記憶では、確か「『死ぬのか。でもそういうものか。しゃーないな』と感じていた」と言っていたと思う。

ある程度の期間、訓練を繰り返していたようであるが、結局アメリカ軍が鹿児島に上陸する前に、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦。戦争は終わった。つまり「特攻」しなくて良くなったのだ。

しかし、話はそれで終わらなかった。特攻の兵士たちは、すぐに上官に基地の塹壕の中に集められた。そして「爆弾を爆発させてみんなでここで死ぬぞ」と言われたそうだ。いわゆる「玉砕」である。

その時の気持ちについても、おじいちゃんは「怖かった」とか、「悲しかった」とかといった説明はなかった。ただ淡々と状況を話してくれたことを覚えている。これも「しゃーない」と思っていたようだ。

もちろん、玉砕はしていない。していたらぼくがこの記事を書くこともできていないのだから。話を塹壕の中に戻す。

オオクボ少佐の言葉

みんなで爆弾を爆発させようとした時、オオクボ少佐という人が馬に乗ってやってきて言ったそうだ。

「みんな今ここで死んだのだ。だから今から第二の人生を始めてくれ」

塹壕にいた人たちは、この言葉に感動し、玉砕をやめたそうだ。

すごく単純な言葉で、本当にこんな言葉で何十人もの玉砕を止められたのかなとも今となっては思う。でも、それまでのおじいちゃんの話からして、当時の若者たちは本当に純粋で、お国を信じて生きてきた。また、これまでの感情の説明からわかるように、死への思いも今とはだいぶ違っている。だから、きっとこのオオクボ少佐の言葉も、シンプルに彼らの心に響いたのだと思う。

おじいちゃんは、ここから第二の人生を始める。

戦争が終わり故郷に帰ってもまだ20歳前後。ある会社に就職し、そこで出会った女性(おばあちゃん)と結婚。夜間の大学に行きながら、2人の子供を育て、60歳で退職した後は「第三の人生」と言いながら、再就職し、80代半ばまでフルタイムで働いていた。そんなおじいちゃんは5年前に亡くなった。

ぼくは、すでに第三の人生を歩んでいる時しか知らないが、優しくて、歳をとってもマラソンに励み、仕事をしているおじいちゃんはぼくの自慢だった。

歴史にもしもはないけれど

75年前の8月15日、もしオオクボ少佐が塹壕に入ってこなければ、この物語は始まりさえしなかった。ぼくの母が生まれることも、そしてもちろんぼくが生まれることもなかった。

あまりにも壮大な話で、何が言いたいのか自分でもまとまっていない。

でも、間違いなく言えるのは、ぼくは今ここにいて、noteをかけていることを幸せだと思っていることだ。

そして、もしこのオオクボ少佐の事を知っている人がいたら情報を教えて欲しい。


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