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ショートストーリー「赤坂の理髪店(1)」

予約変更

村田は、店のレジカウンターに置かれたコードレスフォンを手に取り、毎月4日に予約を入れてくれている常連客に電話をかけた。

「すみません、今日の予約、どうしても無理になってしまって」

「え?なんで。えらい急だね。体調不良かい」

「いえ、ちょっと、急なお客さんで、その。。。」

「ああ、そういうことか。わかった。じゃあ来週でいいよ」

「すみません。同じ曜日、時間で取っておきます。ご迷惑をおかけします」

「いいよいいよ、あの人のために予定変えたなら、飲み屋で自慢できるから」

「あ、この件はもちろん」

「あー、わかってるって。極秘だろ。誰にも言わないって」

村田は、最後の一言に疑いを感じながらも、再びお詫びを伝え、電話を置いた。

さて、これで準備は完了した。午後5時まであと1時間半。正確には午後5時4分に到着予定で、時間に遅れることはまずない。

3時間前に連絡が入ってから、店長である村田自らが、その時間に先約を入れてくれていたお客と前後1人ずつ、計3名にお詫びの電話を入れていたが、誰もが深く情報を聞かずとも事情を理解し、すぐに譲ってくれた。

公然の秘密

赤坂にある理髪店は、土地柄、どの店舗もいわゆるVIP客が来ることがある。

しかしその中でも村田の店は、国会議事堂に一番近く、また、ホテルの中に店を構え、個室を準備できるという好条件から、VIP中のVIPである歴代の総理が利用していることが、いわば公然の秘密であった。

もともと、VIP向けに店を出したわけではない。若い頃、田舎から出てきて修行に入った店が偶然赤坂にあり、それなりに名のある理髪店だったので、周辺一帯が再開発される際、再開発後にできる高級ホテルのテナントに呼ばれたのだ。

そうこうしているうち跡を継がせてもらうことになって、結局もう理容師歴も40年近く。高級ホテルに店を構えられるだけあって、もちろん腕は確かで、業界ではそれなりに有名な存在ではある。

しかし村田はそれを鼻にかけることはなかった。また、VIP客で多いとはいえ、どんな人間であっても平等に扱うというポリシーの元、少なくとも予約の調整以外は、他の客と変わらず接客に努めていた。

そして正直、どちらかといえば、警備上、来店前後にお客を断る必要がある総理の利用は、名誉ではあるが、理容師としてはそれほど嬉しいものではなかった。特に今回のような急なものは。

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