「生ジョッキ缶出荷停止」と「ワクチン接種」にに共通する公平性の呪縛
アサヒの「生ジョッキ缶」の出荷が再開されたという記事を見た。この商品は、4月に先行販売を開始したものの、売れすぎて販売停止になっていたのだ。この記事を見ていて、ようやく一日100万回に近づいてきたワクチン接種との共通点を感じずにはいられない。
不思議な出荷停止
そもそも「売れすぎて出荷停止」とは、本当に不思議な現象である。売れすぎているのであれば、製造できる分は、それだけ販売するべきだと思う。でも、日本ではそういうことはしない。
一旦製造を止めて、設備を増強したから販売再開する。
これは、多くの要望に対して、中途半端に答えることで、ある小売業者には売っているのに、ある小売業者には売れないという「不公平」を産まないためである。
経済合理性から言えば、いつもよくしているスーパーに卸したり、オークション形式にして最も高値をつけたスーパーに卸してもいいと思う。でも、そんなことはしない。
他のスーパーから苦情を受けることになるし、高い値段で販売されれば、メーカー自体の評判が悪くなるから。
つまり、全て、店舗に、お客様に対して公平性を重視しているのだ。
ワクチンも同じ
ワクチンも全く同じだと思う。
いろんな意見がある。でも、みんな平等にすることが大切なのだ。
一斉に接種券を送付して、一斉に受付を開始する。スマホを持っていない人と不公平にならないように、電話での受付も行う。回線がうまくつながった順番にワクチンにありつける、非常に公平なシステムである。
本当は、機械的に無作為に順番を決めてしまって、予約日時とともに接種券を送付する方法もあったのだと思うが、でも、それでは公平にならないのだ。
公平性の呪縛
まさに「呪縛」とも言えるほど、公平性を大事にしているのは何故なのだろう。
もともと日本人に備わっている性質ということはあると思う。基本的に「誰か得をする」という状態はよく思われていない。努力して商売に成功してお金持ちになったとしても、決して手放しで褒められることはない国民性がある。
そして、最近では、公平でないことへのバッシングの大きさもあるのだと思う。「それでは公平ではない」という指摘を恐れて、過度に公平性を求めているのではないのだろうか。
もちろん、そうは言っても全国民が同意できる程度の「選別」はしている。例えば、65歳以上が優先されているのは、公平性から一歩足を踏み出した結果だと思う。
他に方法がない
反対の目線で見れば、「公平性の呪縛」から他にやりようがなかったとも言える。
というのも、もし公平性を無視して、政府が一方的に例えば「大都市から」などと決めてしまったら、メディアが一斉にバッシングを始めて、接種計画がメチャクチャになっていたことは間違いない。
さまざまな意見がある中で、政府としてリスクは取れない。
だから、みんなが同意できる最低限の「選別」だけしてしまって、あとはワクチンが余り出したら順次別の方法を進めるという手法しか結局はできなかったし、それが最適解であったのかもしれない。
やむを得ないのか
この状況は決していいものではないと思う。でも、日本人の持つ感情や、今のメディアの状況からすれば、繰り返しにはなるが、他に方法は無かったのではないだろうか。
メディアやSNSでは、評論家の「接種順はこうすべきだ」という主張を見ることができる。しかしそれらは、法的、技術的に可能かという意味以上に「国民感情的に実施可能か」という議論があって初めて実現することだ。
アサヒの「生ジョッキ缶」の出荷停止のニュースを見る限り、公平性をここまで重視する日本人が、お上が決めた「選別」を受け入れるとは思えない。
そういう意味で、行き当たりばったりに見えるワクチン接種は、結局は「国民が望んだ形で進んだ」ということではないだろうか。