まだ下書きだけど、記念すべき9月29日(後述)になってしまったので一旦あげといて、後で気が向いたら直します。ただ気が向かないかもしれん。

手記より
8月の頭、東京に台風がくる前の7日夕方、この日は18時に目が覚めた。手記には開筆一番「仕事やだな~」と書いてある。
もう雨は降り出してんのかな、と玄関のドアを少し開け、辛うじて見えるせまい西の空、もじきに新しいマンションで隠れてしまう、が目に入ったところではっとし、急いでカメラを持ってマンションの外階段を駆け上った。夕暮れの空を北から南へ、ちぎれるようなスピードで雲が横切っていくところだった。最上階まで上ってカメラを構えたとき、部屋を出る直前に勢いで耳につっこんだAirPodsから、"♪強い台風の去ってった夜に/高いビルの上から街を眺めてた"……がちょうど重なってきて……ヤバかった。久々に聴いた、クラムボンの「Folklore」だった。この曲とはもう10年来の付き合いになるが、自分にとって特に思い出深い曲でもあった。
10年前、2013年の自分はというと、忘れもしない9月29日を境に半年通った美術専攻の高校の授業に思いっきり挫折して不眠を患い、来る日も来る日も家の中で自分の一挙手一投足を書きつけたり、処方薬をアレして記憶を飛ばしたり、携帯もカメラも持たずに片道1時間半かけて山に登り、何もせずにまた1時間半かけて戻ってくるといった、これまでの人生において最も珍妙な時期を過ごしていたのだった。最も、かどうかは2019~2020年のヒッピー生活と比べて議論が絶えないがそれは今回完全に無視する……
クラムボンのその曲、「Folklore」を知ったのは、不登校が続く自分の考えを共有しようと、担任の先生が設定した三者面談の日だった。自分が同級生たちとふいに出くわして気まずくならないようにと面談の時間は夕方の保健室に設定され、自分は母親の運転する車に乗って高校まで行ったのだ。そしてたぶん保健室で「あ」とか「う」とか言ったんだと思う。実際あんまり覚えていないのだが、結果的に「じゃ通信制高校に転入しようか。出席数ヤバいし」といった感じの結論になったと記憶している。
そしてその帰り道、母の運転する車に乗り、時刻は夕方、空はすっごい朱、大月線をなぞって家へ帰る最中、ふいにラジオから流れてきた曲がクラムボンの「Folklore」だったのである。母はつらい顔を少しも見せず、まあ兄弟元気出せよといった調子の言葉をかけてくれた。もう、家に帰ろう。この、不登校という諸々きびしい状況がともかくこれで終わるのだという、後ろめたくも肩の荷が降りるような気持ち、母や友人、先生たちのけなげな優しさ、そして申し訳なさ、それが渾然として結局なんだかよくわからなくなった感情の中で、「何かが変わってゆくような………あと少しで………何事もなく消えてゆく………」と途切れ途切れに耳に入ってくる歌声、優しくも切なげで、雨上がりの匂いがしてくるような音、それがそのとき、どんなに自分の心に響いたことだろう。その時、その日から、もう10年経ってしまうらしい。
久々に聴いたこの曲をバックに空の写真を撮りながら、そういえば空を見上げるのも久しぶりだな……と言葉にするとアレが過ぎるけど、真剣にそう思った。実家にいた頃は昼夜問わずベランダに出て、しょっちゅう空をぼんやり眺めていたものだ。たとえばある日の夕方、いつものように実家のベランダから空を撮っていた時のことを思い出した。ふと家の前の道を見下ろすと、一人のサラリーマンが電話しながら歩いてくるのが目に入った。記憶が正しければそれは雨上がりで、まったく空は息を呑むほど美しいのだが、サラリーマンは家族なのか、仕事相手なのか、電話に急かされ目線は数メートル下に落ちている。彼にはあの強烈な空が目にも留まっていないのだ。それを見て私は半ば憤りを感じ、「お前は休め!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と思ったのだった。でその彼、その時私の見ていたサラリーマンと、今現在の自分が重なっているようにも感じたのだ。ちゅうて「休め!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と感じたその時の私はというと、まるっきり何もしていないほろ酔いの無職だったのだが。

8月11日から3日間、前倒しの盆休みをもらい、久々に静岡に帰省した。そして母から、3軒隣に住んでいた老夫婦のじいさんの方が自ら命を絶っていたことを知った。手段はいちいち書かないが、それを知った私は2年前の夏、夜遅くに、どういう経緯でかじいさんと玄関前の通路で一緒に酒を飲んだことがあったのを思い出した。思えば、その頃からじいさんは希死念慮を強く抱いていた。1時間以上に亘って彼と話をしていたのだが、彼の話は些細なことから重大なことまで、大小さまざまなネガティブなことばかりだった。”焼肉弁当が好きだったのに、こないだ買ったら肉が2切れしか入ってなかった”、”仔猫が轢かれて死んでいたので尻尾を引っ張って道の端の方へ寄せてやった”、”親戚が入院しているが植物状態で、寝てるだけで月に何十万もかかるらしく憂鬱だ”……そして口癖のように何度も”死にたい”、”退屈だ”、”もう生きていたくない”とこぼした。それでは足りなかったのか、さらに念を入れてこうも話した、
「俺ね、神様が出てきて、俺を今のあんたくらいの年齢……22,3にしてやるって言ってきたとしても、なりたくない。この時代じゃなくて50年前に戻れるとしても、やっぱりなりたくない。俺はもうこのまんま死んでいきたい。今まで生きてきて色んなことあったけど、戻りたいとは思わない」
「あんた、死にたいって考えたことある?怖いのはまだ若いからだよ。俺なんてもういつ死んだっていいと思ってる、ここ(5階)から飛び降りちゃおうかなんて考えることあるもん」

そんなわけだったから、母から訃報を聞いた時も、「まさか彼が」という意味での驚きはなかった。ただ、ああ、本当にやってしまったんだ、と思うだけなのだ。辛かったですね、もっと話を聞いてあげられなくてごめんなさい、と寄り添うような気持ちでもなく、どちらかと言えばむしろ突き放すような気持ちの方が大きいかもしれない。寄り添ったところで彼はもう死んでおり、すると今度は自分が思い悩み、危なっかしくなるだけなのだ。
しかしあの夜、何度となく「死にたい」と口にした彼に、「死んではいけない」と一言言わなかったことは心に残っている。自分は自死を肯定しないのに(そんなことをしたら何かのはずみで死んでしまいかねないので)なぜそう言わなかったのか、それは生きたいと願う人に死ねと言うのと同じように、いや同じじゃないかもしれんが、死にたいと願う人に生きろと言うのも、それも大して彼の苦しみも知らない私が言うのは傲慢だと思ったからだ。「死んではいけない」と言っていればこんな結果にはなっていなかっただろうか、と考えるが、彼が本当にいなくなってしまった今、変わることはなかったと信じてしまいたい。

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