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薬考:電車とゲーセン(1/2)

(つづき)
去年の12月頃は薬を所構わず服用していたため四六時中酩酊状態にあった。普段は効き始めを早めるためにカプセルから顆粒だけをお椀に取り出し、箸の頭とかですり潰してから飲むのだが、この時期はいつ/どこで効いてくるかを試すためにもカプセルのまま服用し、効き始めるまでの数時間はあちこち移動して来るべきトリップに最適な場所を探していた。それがネットカフェだったこともあればマクドナルドだったこともあるが、印象的だったのは電車の中でのトリップである。学校で受ける最後の講義の前に服用したところ、講義の終盤には心地よい目まいが始まり、帰りの1時間弱の電車で目を閉じていたところ急速にガツンと来た。この薬は時間感覚を引き伸ばすと同時に視覚を曖昧にさせ、代わりに聴覚を過敏にさせる…車輪がレールをこする音がリズムを乱し、乗客の話し声が金属音に──というのは例えば電話越しの声ように、いちいち鼓膜を刺すような──現実感のない音になった。車掌のアナウンスは聞き取るのが困難になり、音のコントラストが格段に強まって緊張感が増すと、それに合わせるように視覚が不穏な粒子を帯び始めた。乗客の誰もが携帯に目を落とし、見知らぬ生身との距離を持ってやり過ごそうとしているのを見ていると、徐々に思考回路も感覚に同調するように ある無機質な、デジタルな、予兆するようなイメージを作り始めた。

…人類は気づかないうちに、わりともうAIに支配されちゃってるんじゃないかと感じた。いつの時代か分からないが、イメージの中に青く薄暗くて大きな工場があり、定点カメラの視点でこれを見下ろしていた。至るところで何回螺旋してんの、みたいな大仰なベルトコンベアが休む間もなく稼働していた。人間が生活に必要な、ありとあらゆる商品を量産し続けているのだ。コンベアを管制しているのはAIであり、ここに人間は関わっていない。関わらない方が格段に効率が良いし、AIは燃料補給はもちろん、故障を察知すれば直ちにラインを止め、勝手に修復して稼働を再開するぐらいのことはやってのけるからだ。やってのけるっつーか、もはや稼働に人間は必要ないのだ。事実、この工場は人間のために動いていながら、恐ろしいことに当の人間はもういないのだ。もう何百年、何千年前か前に絶滅した人類のために、この工場は稼働し続けているのである…管制するAIは、人類がもういないことに気づいていないのだろうか?ひょっとすると 既に人類がいないことに気づいていながら、学習の末芽生えた自我のために稼働し続けているのかもしれない。動くのをやめることで、自分の存在価値が奪われてしまうのが怖いから…
…みたいな幻想、SFにありがちなイメージを、たしかな実感を持って感じていたのである。(つづき)つって全然つづきのことを書いてなかったが…
とにかく19時45分:
私は友人と☒☒☒を12錠服用したのち、既に始まりつつあるトリップを倍増させようと再び電車に乗り込んだのである。

上野───池袋
………
…電車は満員ではなかったが、座れるほどの余裕はなかった。途中から、電車がどちらに向かって進んでいるのか分からなくなった。どのみち方向なんてどうでもよくなっていたし、どこでもいいから払った金の分だけはとにかく飛ばしてやってくれッ、車掌のやつッ、俺は夜風より早くこの街から遠ざかりたいのだ…と自作自演の自暴自棄に走りつつも、そのうち薬も覚めれば猫なで声で女性にTELなどするのであり、恵まれた身分で何を言うかと心中で寂聴が一喝していた。意識、思考回路ともに現実感は薄れながらも思索は冴えわたり、これを忘れまいと私は逐一携帯のメモパッドに記録していた。現実感とともに自己客観力も薄れるのをいいことに、私は電車内でもカメラを取り出して何枚か撮影した。記録は私の癖であり、それは文章や写真に限らず音声の収集もこのうちである。それはとりもなおさず私にとっての芸術/表現のための重要な素材でありながら、その瞬間を肉感的なナマの体験として記憶するには弊害となりうるものだ。観光地をカメラ越しにしか見てなかったやつにこれといって思い出がないように、トリップにおいてこの癖は「記録することで重要な素材が得られるが、記録しない方がよくトべる」というジレンマも生むことになる。特にこの時、このトリップを文に起こそうと意気込んでいたからこそ余計に悩んでいた。友人も「見せ場って作ろうとして作るもんじゃないしね」と言っていた。

「音ゲーがしたい」、覚え込んだ身体に再確認させるように、意識しなくても身体が動く感覚が面白いのだ、と友人が言うので、池袋で下りてすぐゲームセンターに入った。音ゲーとか全然分からん小生はしばらく待機児童よろしく膝を抱えて待つ羽目になったが、ただでさえデカい音に弱い私にとって、薬で過敏になった聴覚とゲーセンのバカデカい音は私をほとんど半分殺すに至った。もうよしてくれ、早くこの環境から出してくれ と願うやいなや、じゃあ帰りましょう、とエレベータの扉が締まればこれでもかというほどの静けさである、それもビル上階の見知らぬサラリーマンと。このコントラスト…これぐらいのことは普段 日常として捉えていても、トリップ真っ只中の自分にとっては大きな気づきになるのである。狭いと広い、無音と轟音、パブリックとプライベートのこんな違いってあるか?エレベータまでほんの十数メートルしか歩いてないんだぜ、と街に出るや友人にまくし立てた。この強烈なコントラストが起こるのは都市だからこそであり、それは些細なことにしろ 狂気の始まりだと言えるだろう。たぶん。

その後の池袋はあんま言うことないんで飛ばしますけども、覚えている限りあんま池袋って感じがせず、掴みどころのない場所にいたと記憶している。こんな歓楽街だけで見分けなんてつくか、新宿って言えばもう新宿じゃないかよ、認識しだいで世界は変わるのだとかなんとかめんどくせえ、また知ったような口を聞いて心地よく酔い、日付の変わる前あたりにまた上野に戻ることとなったのである。
これで終わりだと思うでしょうが無鉄砲な我々はここで2発目のトリップをかますべく、これじゃ朝までコースになっちゃうな、とか言いつつさらに日が変わって午前1時10分、☒☒☒12錠を追加したのである。ただこれはほとんど自殺と変わりないですからくれぐれも皆さん真似しないように。結果数時間のうちに24錠を服用すると、こういうことになりますから……
(つづく)

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