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「あの頃の夜」を再確認したいのかもしれない

東上野 西町公園より
最近は家で酒を飲むのをやめ、なるべく外で消費しきってから家に帰るようにしている。一人で居酒屋に入れない質の私はつまりコンビニとかで無糖なんとかを買って公園や路地裏をうろうろするわけだが、それを真っ昼間にやるわけにもいかないので(なぜなら人目を気にしていては楽しくないので)、きまって夜も深まった頃にうろうろすることになる。そして私は夜間の仕事をしているのでうろうろできる機会は週に2度であり、だから当然酒の量が減る。それを狙ってやっているのですごくえらいと思う。
路地から人が消えると這い出してうろうろする習性は昔からのものだが、週に2度しかないプライベートの夜を寝て潰してしまいたくないという気持ちは仕事を始めて増したと思う。それはおそらく、ふだん働いて過ごしている夜の存在があまりにもかつての姿とかけ離れてしまっているために、お前そんなんじゃないだろ?もっと時間帯ってだけでわくわくさせてくれてただろ?とこう、躍起になって「あの頃の夜」を再確認したいからだろう。

とはいえ、襖の向こうで寝ている母と姉に気を遣ってシーリングを消し、小さな電気スタンドひとつで机に向かい、朝までひっそりと一人の時間を楽しんでいた実家の夜の力に敵うはずはない。当時は当時で、早いところ独立して気ままに夜を謳歌したいと思っていたものだが、これはずいぶん甘い考えだったと思う。早々に床に就く家族のすぐ近くでこっそり活動するステルス性ちいますか、あれこそが夜をいっそう深いものにするために欠かせない要素だったのである。いざ一人暮らしが始まってみると、いつ何時起きてようが、電気を消そうが点けようが一切お構いなしなのだ、それをこそ望んでいたつもりだったのだが!自由は不自由の中にあってこそ実感できるというのが誰の言葉か知らんがこれは本当で(父親と暮らした不自由の日々を思い返すたびに浮かんでくる言葉)、全てが自分のほしいままになれば今度はたちまち張り合いがなくなってしまうのだ。そして「まだ起きてる俺」に興奮していた若い自分は、一度失うともう絶望的に戻ってこない。ないものねだりばかりしている。

話は逸れたが、わたくし今まさにおります午前2時の無糖グレープフルーツ西町公園、この時間帯にこの辺をこの状態で過ごしていて思い出す「あの頃の夜」とはやはり数年前、友人と☒☒☒を呷り、酩酊状態で朝までどこへともなく歩き続けた数年前の夜の思い出の数々だ。ここnoteでもその頃のとち狂った話をリアルタイムで投稿していたが、読み返していてもそれが「こないだの話」から懐かしい思い出に変わりつつあることに驚きを隠せない。友人と2年弱を共に過ごした家は数年前にぶっ潰され、今ではタイムズになっている。横を通るたびに、こんなに狭かったかなあと思う。
かつて自分をこの場所に誘ってくれた友人が今は地元にいて、誘われた方の自分がいまだにこの場に留まっているとは不思議な話だ。そしてそういう積み重ねが確かに今この現在を作っている。たとえば、今ある大切な人との出会いはとある自分の好かん人間との出会いがなければあり得なかった。なんでですか、そのとある自分の好かん人間が、今ある彼女との出会いの場を結果的に提案してくれたからだ。そのとある好かん人間がなぜ自分と出会ったか、それは彼が友人と縁が深く、友人が彼との飲みの場に自分を誘ってくれたからだ。だから私は友人に感謝するのはもちろん、その好かん人間にも感謝しなくてはならないし、また素直にそうする。これも大人になるっちゅうもんであるが、それをわざわざ好かん人間と書いとることは大人げないことの極みである。知りませんそんなことは

ごく稀に、今でも一人で☒☒☒を呷ることもある。するとやはり、どんな酒を片手に探し歩いても出てこない「あの頃の夜」が、当たり前のようにあっさり立ち現れる。結局錠剤でもってこっちの目と脳が変わらなくてはダメなのだ。夜の闇はいっそう深く落ち込んでノイズがかかったようになり、空気の音が遠く歪んで超音波になる。両目では焦点がおぼつかなくなり、俺は片目で上野と浅草をうろうろ行き来する。
そして専ら、そういう時だけ、かつてこの夜を一緒にうろうろした友人に連絡をする。いかにも、この夜にだけ立ち現れる亡霊のようだ。仕事中の彼は返信してくれる。帰省してたまに会えばお互い楽しかったな、またやりたいなと言うが、物理的な距離から言っても、お互いの仕事の流れから言ってもそれは難しいだろう…徐々に街ごと傾いて坂のようになり、自宅へ戻るまでの階段が登れなくなってくる。鬼ころしが甘く感じるのでだいぶ効いてきたようだ…これは昔友人が発見した順調に酩酊しとるか否かの基準でして、一緒にキメていた頃によく使っていたものだ。今でもぐらぐらしてくると友人と一緒に歩いているような気がしてくるのだ。

ぐらぐらぐらぐらする中で突然、今年の頭にコロナにかかって5日間家から出なかったことを急に思い出したりする。その間、誰とも顔を合わせていないのに、壁の数センチ向こうのエレベーターではこの集合住宅の住人が絶えず上がったり下がったりしていることを思い、不思議な気持ちになる。顔も知らない彼らとの肉体的距離はほんの数十センチ、下手したら数センチまで接近していたのだ。俺が今もこうして寄りかかっているこの壁の数センチ後ろには1m四方、高さ30mの空洞がぽっかり空いている。もし今、いっせいに壁という壁が消えたら何が見えるだろう?…とこう、トリップの最中にはまるで関係ないエピソードが矢継ぎ早に挟み込まれ、時系列もランダムなもんだからどれが現実なのか分からなくなってしまうのである。
朝が来て、ゆらゆらしながらイヤホンをつっこんで布団に潜り込むと、俺の麻痺した肉体はゆっくり無くなって、布団との境界を失っていく。そうこうしているうちに俺は床となり壁となって、しまいにはひとつの集合住宅となって、ただ音に耳を傾ける意識だけの存在になる。まあ、だから耳はあるらしい。目は開ける気にならないからもう無い。食欲も、性欲も、睡眠欲も無い。いつまで聴いていても眠くならない。時間の感覚さえ失って、俺はたしかに死に近づいているらしい。そうして俺は科学的に作り出された悟りの境地を見る。耳のついた集合住宅はいつの間にか眠りについて、日が暮れるまで死んでいる。しかし起きれば次の夜には仕事をしている。

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