ルッキズムと都市とトランスと私自身であること

ルッキズムは破壊されるべきだ。まさに。
都市の、列島全体に拡張された「都市」のゲーム、勝敗を絶えず審査し続けるパノプティコンとしての都市。そこでゲームに参加させられている私たちは、確かにこのゲーム盤を破壊しなければならない。

では、そのときトランスジェンダーはどこへ行くのか? 私たちはそもそもこのゲームに参加させられている、私たちが私たち自身であるために。セックスさえ構築される中で、どうにか一貫したアイデンティティで、都市の中で生きていける、過酷な努力。そうしければ死んでいた。
勝敗じゃないんだよな。分かってる。ただ私たちは私たち自身として生きることが、ゲームに参加することとイコールなのだ。もはや逃げ場はなくて。強くあらなければならなかった、完了形で。問題は、ゲームから降りれば、私たちは私たち自身として見做されすらしないということ。

どこかに閾値があって、そこを越えればパスできる。ひとは結局、記号を見ているのだから、身体(「私」の総体)の奥に同一性を見ているのだから、その同一性、それはほとんどの場合二元的な同一性が、私たちがそう眼差すよう期待するそれと、名前だけ、一致するならばそれでいい。「いつも心にノンパスを」? その理屈は分かる。けどそれは、終わりない努力、無駄な努力に自ら身を投じよという命令だ。いつか閾値を踏み越えてしまう恐怖に身を晒すべきではない。身が晒されるべきではない。
パスについて、考えるべきですらないのかもしれない。私たちの固有の文脈の中で、私たち自身として、それは単に「女」「男」という名前ではなくて、交差した属性の中に位置づけられ、物語を持った、つまり特定のシニフィエを持った私たち自身として、眼差されるならそれでいいのだと。都市の中で、都市の眼差しを無視する。あたかも赤信号を渡るような。
それが誰かを傷つけないならば? これは聞き飽きたヘイト言説を自ら繰り返しているようにも見える。トランスであることが誰かを傷つけてしまう可能性に怯えさせられている私たち。突き放せば、「勝手に傷ついてろよ」と。ただそれは私の(今、「僕」って打って「私」と打ち直したな)望むところではない。
私たち自身であろうとしなければ、私たち自身ですらいられない。無為で貴方がた自身でいられる貴方がたとは違うんだと罵ってしまいたくなる。現にそうだ。私は私が了解しているところの何者かで現にあるのに? にも関わらずそうではいられない、矛盾。これは矛盾なのか?
私たちが構築された既存のジェンダーに保守的になるのも分かる。私自身そうなりつるある。女として生きようと決めてから、ジェンダーのステレオタイプを、ルッキズムを内面化しているような気がする。私は女だから、私は女だから、と。それは私が悩んできた時間を無視して、抹消しているのではないか? 私はこれまで女ではなかった。それは確かだ。常に私はどこか女ではない。その一方で私は自分が女だと眼差されることを望んでいる、期待している。ゲーム盤の上で、誰かの掌の上で。降りたくない、と思ってしまう、思っている、それは怖いことだから。私自身でいられないのではないか、という恐怖。
どこにいっても恐怖だな。

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