【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ① 〔初版への序〕
岩波文庫版の【弓と竪琴】。その末尾に、解説として収められている、詩人・松浦寿輝による[大いなる一元論]、冒頭の一文。
まさに、その通りだと思う。
驚くべき綜合すぎて、ひととおり読んだものの、自分の中でまだ全然整理がつかない。
いつまで続けられるかも分からないが、何回かに分けて、この【弓と竪琴】について書くことで、僕の中でもすこしは「綜合」ができたら良いな、と思う。
あわよくば、これがささやかな「読書案内」となって、周りにこの本についてあーだこーだ言い合える人ができたら万々歳なのだけれど。
まあ、それは欲張りすぎかもしれない。
とにかく、とりあえず、書く。
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【弓と竪琴】は、メキシコのノーベル賞詩人、オクタビオ・パスによって書かれた『詩論』である。
…と言っても、そこで論じられているのは、なにか特定の〈詩作品〉や〈詩人〉、或いは、とある歴史的時期に限定されたような〈詩史〉や〈詩派〉、〈文学運動〉についてだけではない。
まさしく「詩という営みそのもの」に対して接近していくような、ほんとうに《『詩論』としか言いようのない著作》だと感じた。
もちろん、『詩論』である以上、具体的な詩作品や詩集、詩人、詩派運動(文学運動)などについて触れられ、論じられることはある。
しかし、それはあくまでも「全体としての〈詩そのもの〉」に接近するための方法(=手段)として挿入された作品論であり、詩人論であり、詩史論である。
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[初版への序]を読めば、パスがこの【弓と竪琴】という『詩論』を書くにあたり、単に特定の詩作品や詩人、文学運動の分析や批評だけには留まっていられなかった理由がわかる。
読み方によっては、この部分から、パス自身の〈詩人としての危機〉が感じとれる。(※1)
詩人が、みずからの詩作を「なすに値することなのか?」と問うている状況は、どこか行きすぎた懐疑主義や虚無主義的な響きに聞こえなくもない。
もし仮に、詩作品そのものを創造することよりも、そうではない世界で活動することの方が「詩的瞬間」を生み出せているのだとしたら、「詩作品(ポエマ)の創作者としての詩人」は、「詩情(ポエジー)の発現」に対しては最大限奉仕できていないということになる。
つまりその場合、ポエジーの側から見たときに、「作詩する人」は、「詩人」から「非詩人」になってしまう。
その恐怖。
詩人を虚無にしかねない、問いに対する緊張感。
しかし一方でパスからは、この〈詩人として(場合によっては書き手として)の己を殺すかもしれない問い〉を自身に投げつけながらも、「それでもなお、自分はその問いに答え、詩を書きつづけることができるだろう」という自負、自信も感じ取れるのだ。
どこか実用性がないようにも見える言葉を、詩語として組み立てながら食っているという《詩を書くことへの疑念やうしろめたさ》のような感覚の反面、それでも詩人として在りつづけてきたなかで経験的に実感しているであろう《詩を書くことの真実味や誇り》。
その葛藤のなかで言葉を尽くしながら、進んでいく各論のスリリングさ。
(個人的には、230頁~264頁の[詩的啓示]という章において、少しだけこの葛藤に対して「ケリがつく」ような感覚があった。)
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要するにこの詩論は、『詩そのもの』について扱いながらも、それは詩の愛好者を増やそうとするための〈入門書〉でもなければ、パス自身のうちで〈すでに整理がついているものを記した記録的書物〉でもない。
ほかならぬ、〈詩人としての自分自身を許し、引き受けるための思索過程が表現された書〉と言って良いだろう。
勿論、だからと言って、これから成されていく記述が、『パスにしか適用されない詩論』というわけではない。
逆説的ではあるが、同時にこれは、パスのように《詩に対する不信感を持ちながら、一方で詩に縋りつく自分も止められずに、同時に「詩的行為に意味なんてあるのか」と問い続けてしまう、すべての〈詩にとりさらわれた人びと〉》に対して開かれた救済の扉になりうる。
(大袈裟だが、しかし少なくともその「救いの可能性」はひめている)
実際、日本の詩人でも、パスのように「書くことそのものへの問い」に悩まされた人物は多いのではないだろうか。(※2)
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更にパスの詩論が対象としているのは、(作品を創造するという意味における)詩人だけではない。
〈書く者〉ではなくても、〈読む者〉として、詩に惹かれながらも「詩に対する問い」を感じている人も多いかもしれない。なぜ自分は詩をよんで感動する(してしまう)のだろうか、と。
次回以降の記事で詳しく触れようと思うが、パスは「ポエジー(詩情)」や「ポエマ(詩作品・詩)」、それから「詩的創造」、「詩的体験」といった言葉に使われている「詩的」という概念などを丁寧に整理しようとする。
それゆえに本論では、〈書くこと〉の軸からだけではない、〈読むこと〉という軸からの詩的体験についても語られていくことになる。
この〈書き手〉にとっても〈読み手〉にとっても普遍的な「詩そのものに対する問い」がたてられているからこそ、スペイン語圏のラテンアメリカ詩人によって書かれた詩論が、〈詩を愛する者〉でさえあれば、まったくちがった文化圏に(日本語を中心として、日本語詩に親しみながら)暮らす者にとっても、有意義な詩論となるのだ。
今回の記事は、ここまでにしよう。
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【ここからはオマケ。】
ちなみに【弓と竪琴】という書名は、ソクラテス以前に活動したギリシアの哲学者、ヘラクレイトスによって残された[断片51]のイメージから採用されている。(※3)
オマケだし、ゆるーく。
X(元Twitter)に居た、ヘラクレイトスbotのURL貼ってみた(笑)。
まあでも、断片51だけ貼ってもちんぷんかんぷんかもだし、ちょっと出来るか微妙だけど、軽く説明を試みてみる。
一応、ここでのイメージとして大事なのは、『形状としての〈弓〉や〈竪琴〉の存在』と言うよりも、『そこに〈張られた弦〉の《弦としての成立の仕方》』である。
(だから別に、極論〈竪琴〉じゃなくて〈ギター〉でも〈三味線〉でも良い。)
例えばここで、竪琴のような弦楽器が演奏されていたとする。
そこで〈弦〉が響かせているのは、耳に心地よい、綺麗で《調和》的な音色。
しかし、その《音色の綺麗さ》とは裏腹に、それを鳴らす〈弦〉自体には常に、「両側から引っ張られつづけ、いつ切れるかも分からない」ような《緊張に満ちた力》が作用している。
ヘラクレイトスは、《調和》を「乱れのない静的な状態」というよりはむしろ、《逆方向に向かう力同士が拮抗している緊張状態》と考えていた。(※4)
オクタビオ・パスが、詩人としての立場から、このヘラクレイトスの思考に共鳴したのは示唆的である。
パスもまた、言葉が詩として「単なる概念伝達」を越える場合には、その詩句のなかで一方向的ではない、言い様によっては矛盾するとも捉えられるような力が同時的に働き合っていると考えたからだ。
「意味の伝達」であることを止めずに、なおかつ、「伝達以上の拡がり」を持つこと。
このあたりの記述に関しては、次回以降のどこかで、より詳しく考えていけたらとおもう。
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また〈弓〉と〈竪琴〉は、どちらもギリシア神話においてアポロン神が、扱いを得意とする道具である。
(その点では、やはり「三味線」じゃなくて「竪琴」であることは大事か。笑)
アポロン神にはある種の二面性がある。
〈竪琴〉は、芸術を司る神に相応しい《秩序》を象徴するのに対し、〈弓〉はその《破壊的な面》の象徴となる。(※5)
《秩序》と《破壊》。
正直、これほど相対立する特性なのであれば、もともと多神教文化なのだし、二柱の神を用意してしまえば良いようにも思える。
にも関わらず、わざわざその二つの特性を、一柱の神に担わせたことは興味深い。
《対立する特性同士が拮抗している座》としてのアポロン神。
その構造も正に、オクタビオ・パスの詩観に通じていると考えて良さそうだ。
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※1)日本の現代詩作家・荒川洋治は、評論のなかで“文学は実学である。”と断言した(そしてそれも納得のいく断言ではある)のだが、パスは、この[初版への序]において、荒川が断言したようなことを言ってしまいたいが、言えずに逡巡しているような雰囲気がある。
もしも「詩的創造の瞬間」が、詩では無い場において完全に発現されてしまうならば、(〈文学〉はともかくとして、少なくとも)「詩は実学である。」とは言えなくなってしまうだろう。
※2)今ぱっと自分が思いついた中で言うと、(今や詩人としてよりも批評家としての側面の方が有名になっているのかも知れないが)たとえば吉本隆明なんかはそうだと思う。
※3)しかし何故か、341頁くらいまで、「弓」にしても「竪琴」にしても、その単語自体がでてこない。なので、タイトルの意味は分からないまま読み進めることになるのだが…。
かと言って、敢えて「弓と竪琴」が何のことなのかを隠していてからのネタばらし!…みたいなカタルシスも特にない。
(それまでの記述で、単に僕が見落としていただけなのだろうかと心配になる。)
※4)ヘラクレイトスは、ピタゴラス派が提示した〈数による静的な《調和》観〉への批判として、このような、ある種〈暴力的とすら言える緊張感を内在させた動的な《調和》観〉を提示したとも言われている。
※5)アポロンは、人間に対して神託を与える神でもありながら、自分を見くびる者に対しては、かなり残虐で戦闘的な面も持ち合わせている。
調子に乗って音楽対決を挑んできた人間の男を負かしたあと、その勝利だけでは治まらず、そいつの全身の皮を剥いだりする場面がある。また自らの母である神を侮辱した女性(人間)のこどもたちを、弓矢で射殺したりもしている。