多くを費やしたものが気づかせてくれたこと
ふと、これまでの人生で
多くの時間を費やしてきたことはなんだろう?と考えてみた。
というか、この問いは度々登場するのだけど、
改めて問うてみたときに出てきたのは
「共感」だった。
母のお腹の中から外の世界を眺めていた頃、
生まれたばかりで言語をまだ自由に使いこなせない頃、
キャッチしていたのは目の前の人のエネルギーだった。
その人から発せられる波と純粋に同調していた。
だけど、あまりにも表裏の差が激しくて疲弊してしまい
いつの間にかその共感覚を使わなくなった。
だからなのか、人と接することがどこか怖かったし、
幼い頃からずっと「誰にも理解されない」と思い続け、
血のつながった家族にすら、心の内を明け渡すことはできていなかった。特に「家族」という感覚が本当に分からなくて、それはいまだに見えずにいる。
一時期は「親孝行」という風習?についてアレルギー反応みたいなものがあったし、同時にコンプレックスも強かった。
肉体をもたらしてくれた両親やご先祖様。
それに関してはありがたいと思っているのだけど、なんていうか世間で言われるような感覚で家族と接することができない。(世間の感覚ってなんだ?って感じだけどね)
仲違いをしているとか、そういったことではないけれど、安心感はない。いつだって緊張感があるし、言葉を選び続けてる。それはどれだけ対話を重ねようともあまり変わらない感じ。
変わった点は、そこに対して憂いがなくなったというか、一つ抜けたところから家族と関係をしている。自分が持っている”家族感”に良し悪しを向けなくなったことは大きな変化だった。(別にそんな状態でもいいよね。といった感じで)
とはいえ、一般的にはその部分においても明らかに人としての感覚が欠落しているわたしだったのに、なぜか多くの人とお話しする機会を与えられた。
それは2017年から始まったセッションをする前から傾向としてあり、なぜか他人に言えない話を打ち明けられることも多かった。
いま思い返せば、
その度にごく自然にしていたのが「共感」だった。
その瞬間、こちらの意図はまったくなく、ただいる。
そういえば15年以上前に親友がある事情で家を飛び出し、身ひとつでうちにやってきたときも”励まそう”とか、”勇気づけよう”とか、そういった何かを付け加えようとは一切しなかったなぁ。
あたたかいお茶を出し、ただ”一緒に居る”だけをやっていた。
そして安心して満足したら、ちゃんと本来の彼女に戻っていった。
数千人の方とお話しをしてきたけれど、やってきたことの根っこにあるものって結局あの頃と変わっていないのだと思う。
共感
これって効果効能みたいなものが著しく出るわけではないから、気休め程度にしか感じないかもしれない。
だけど、わたしは知ってる。
共感することに多くの時間を費やしてきたということは、
それだけわたし自身が「共感」を求めていたから。
長年求め続けていたのは、理解し合えること、分かち合えること。
それらがどれだけ貴重な機会で、
どれだけ幸福感をもたらしてくれるかを
わたしは知っていた。
おそらくその価値を真に理解するために数千人の方とお話しをする経験をしてきたのだと思う。
相手になること、成り替わることは当然できない。
それに共感したからといって問題が解決するとも限らない。
だけど、それはあくまで外側のことであって
心や魂が価値としているのは、
共に感じること、分かち合うこと、なのではないか?そんな風に感じる。
きっとそれは愛されている感覚に近いからなのかもしれない。
そして、その分かち合いから生まれる創造の種は
想像を超える世界を生み出してくれる。
これが本来、人が持つ可能性であり、
光なのではないか。
そんな風に感じています。
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