雨が止んだら -二人だけの教室で-
私は想像をしない。
なぜなら、その通りにならなかったときが悲しいのを知っているから。
幼い頃の私は、こうなったら素敵だなと妄想し、その想像に耽ることが多々あったが、一度としてそれが現実になった試しはない。
故にいつからだろうか、それをする者は愚かだと思うようになった。
けれどーー
ある日の水曜日、私は少し遅くに学校へ到着した。そのとき、私より先に日比野巡が登校していれば良いと思った。そして自身の席で本を読んでいてほしい。
沢山の経験をしてきて予想と言うものに飽き飽きしていたけれど、その日は違った。何故だか想像し、期待してしまう自分が居る。なんて愚かなんだ。
そんなはずはないと分かって居ながらも、少しの緊張感と共に教室の戸を開けた。
あ……
声には出さなかったが、そこには自分の席で必死に何かを書いている彼女が居た。おそらく、本日行われる小テストの復習だろう。彼女は律儀にも、小テストのある日こうして復習したものをノートに書き写している。
けれど、朝早くに登校して行っている姿は見たことが無かった。
今まで想像に過ぎなかったものが、初めて現実に変わった。故に少しだけ驚いた。
「おはよう。」
私は、普段誰にもしない挨拶を初めてしてみる。
「うん、おはよー」
案の定彼女は私だと気づかなかったが、挨拶した後に気づいたのだろう。振り返ったあとに小さな声で「あ、え?」と驚いた様子だった。
私は自分の席に着くなり、早速いつも通りに窓を開けた。
すると朝の澄んだ空気が教室へ流れ込む。この頃は蒸し暑い日が続いていたが、今日は少しだけ爽やかな風がカーテンを靡かせた。
「最近いつも窓開いてたけれど、それやってくれていたのって入梅晴さんだったんだね。ありがとう。」
私は彼女へ伝わるか伝わらないかの程度に拍子抜けした。
実はお礼を言われたのはこれが生まれて初めてだった。そんなこと有り得ないと思われるかもしれないが本当だ。これまで生きてきた環境が人と違う所為もあるが、
ありがとうという言葉はこんなにも暖かいのだと、このとき初めて知った。
私の母も周りの人間も、私に期待することはただ一つだ。よって無表情で居ることを必然的に強いられていたため、いつしか感情すらも薄れていたのだ。
だから、だからこそ。このときかけられたその言葉は、私の胸の真ん中辺りをきゅうっと締め付けた。それは今まで経験したことのないものだ。苦しいような、けれど嬉しいような。
日比野巡はお礼を言ったあと、先程と同じように勉強を始める。
私はゆらゆら踊るカーテンを纏めた後、教室のベランダに出てみた。拓けた窓の外には、登校してくる生徒たちが居る。それを見てもいつもなら何とも思わないはずだが、今日はなんだか皆が楽しそうに映る。
参考書を必死に読む者や、友達と一緒に登校しているであろう生徒。横断歩道に立って元気に挨拶をし、ボランティアをしている地域住民。
正直羨ましい。
本当なら、私も。皆の様に楽しそうに学生時代を過ごしたい。けれど私にはやらなければならないことがあって、その為に此処にいる。
私は私の運命を呪った。
けれど、今回のことで改めて実感した。
私はちゃんと人間だ。まだ感情もちゃんとある。
しかし、だからこそ注意しなければならない。その感情に流されることのないよう、ちゃんと義務を果たせるよう。
「入梅晴さん、何見てるの?」
復習が終わったのだろうか、日比野巡が私の隣へやってきた。
「別に。」
いつも通りに返す。
けれど私の目は少し微笑んで居たと思う。それがバレぬようそっぽを向いた。
此処へ転校してきてから、番狂わせが多すぎる。日比野巡と、彼女の大切な友達である水無月雨衣。数日しか経っていないが、この二人のお陰で私は私でなくなることがある。
正直迷惑だ。
感情移入している訳では無いが、私は彼女たちが悲しむ顔を見たくない。特に日比野巡に関しては。
彼女は私の世界の中心なのだ。いや、「中心であるべき存在」と言った方が正しいのだろうか。
気持ち良い風が頬をなぞる。けれど今日は午後から雨の予報。
ここから夏へと移り変わるのか。
此処の夏はどんな感じなのだろう。
太陽が煌めくのは本当だろうか。蝉が五月蝿いほど鳴くのは本当だろうか。風鈴とは、どんな音がするのだろう。
過ごしていく内に体感したい。
そして雨は、夏にも降るだろうか。
――けれど、これ以上私が此処へ居る訳にはいかない。
この日私は決心し、
日比野巡を屋上へ呼び出した。
そうして、
「だから覚えておいて、私の名前は入梅晴五月。」
その言葉を残し屋上から飛び降りた。
雨が止んだら -2人だけの教室で-
~終わり~
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