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ウンベルト・エーコの読まれない書棚
他人に話すべきではない話の中に、「夢で見た話」というのがある。でもあえて書こう。
こんな夢を見た。
一番はじめにみたのは、自分が座っている腰掛けだった。
埃をかぶっているけれど、サファイアで表面が覆われていて、エメラルド、ルビー、トパーズなどがはめ込まれている壁と椅子。はじめはイミテーションかと思ったけれども、その後確信をもって本物だなぁと思いつつも、「ははん家主もすごい趣味してんな」くらいで、私は価値を感じていない。
その部屋には、ぎっしり積まれた書棚が奥にあって、さらに都心のビル群のように無数の本がそびえ立っている。
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小中学校の教室くらいの大きさの部屋に、このイラストよりも高いくらいのブックタワーが無数に乱立していた。
積まれた書籍が、なんの本かわからないから他人の家なのは明らかなのと、やっぱり私は価値を感じてない。
その後、積まれた書籍の奥の方で、ロブスターサイズのサソリとクワガタが縄張り争いしているのを目撃してビビるなんて話もあるのだけれども、最近やっているゲームやら夢の支離滅裂もあると思うがしばしこの話は置いておこうと思う。
実際のところnoteをはじめてからあまり読めていないとはいえ、この年代としてはかなりの数の本を読んでいる方だと思う。そして、高校生まで住んでいた家のとなりが図書館だったこともあり、ナシーム・ニコラス・タレブの本でみた「ウンベルト・エーコの読まれない書棚・反図書館」の話はものすごく合点がいくところだった。
ただ、私が気づいていなかったのは考えてみれば子どもの頃、親の友達の家なんかにいくとやっぱり親のと同じくらいの本棚と積まれた本があったけれども、「何か難しそう」でなにより「興味がなかった」。親の書棚についても同じ感想を持っていた。父の書棚からいくつかの写真を主体とした植物やらキノコの本をめくってはいたけれど。(キノコの本は綺麗だったのだけれども、ほとんど毒キノコだったらしい。)
夢でみたその部屋は、さすがに実家ではなかったけれど、親と同年代の人の家だと夢の中の私は感じていた。(私の年代だと、漫画の埋まった本棚はありがちだけれども、文字の本だけで埋まった本棚はなかなかない気がする。)
家主が誰だったのかはわからないし、おそらく関係もないのだと思う。万が一にでも、これを読まれている方の中にサファイアの腰かけのある書斎のある家に住んでいる方がいらっしゃったら本当に申し訳ないけれど。
他人の本のコレクションと、宝石。
他人が価値があると思っている無形のものと有形のものと置き換えてもいい。物理的に積まれている本は有形のものだけれども重要なのはその中身の情報なので。
その部屋にあったのは他人が重要だと思っているものと認識できるけど、自分はガラクタのように価値を感じないものだったということがものすごく印象的で。
そこで、はたと気づいたことがある。
他人が価値を感じているものに自分が価値を感じていないことが多いということ。
そして、なにより書棚にどんな本があるのかというのが、気になる相手というのは意外に少ないということ。
なんならば、参考文献が気になってもリスト化して書店にいくなんてことは到底したいと思わなかった。だからお気に入りの作家の書棚にあろう本すらそういえばあまり読もうとはしていなかった。最近は電子書籍の時代になって、気になればそのそばから電子書籍サイトを覗けば3分かからずに手に入るので、買っては積んでいるけれど、本当にここ数年の話だ。
なんてことを、この文章を書くかたわらちょっと書くのに詰まると読んでいる読書猿氏の「独学大全」を読みつつ、さらに膨大な参考文献のうち何割かはすでに読了にしろ積ん読にしろ持っているものの、持っていないもののうち気になったものの電子書籍版を購入しつつ思った。(そもそもこんな夢をみたのはずっと積んでいたこの本を読み始めたせいな気がする)
確かに有名人であれば、例えば岡田斗司夫やメンタリストDaiGoの動画で後ろに映っている本棚であったりはちょっとみてみたいと思うけれども。
他人に対して自分にどんなアウトプットしてくるのかはめちゃくちゃ気にならなるにもかかわらず、どんなインプットをしているのか気になる相手がものすごく少数なのだ。相手の思考を構成している何割かを占めているはずなのに。
月を指せば指を認む
なんて言葉があるけれども、人のアウトプットを見るというのはどちらかというと指をみることに近いのかもしれない。相手の見ている先の月をみるには何かを目指してインプットをしていることが多いと思うので、むしろ相手の月を見るにはインプット内容を見た方がいいのではないかと思ったりしたんだよね。
裏を返せば、誰かにどんなインプットをしているのか気にさせるくらいのアウトプットをしていかなければいけないのかもしれない。
自分の知っていることと知らないこと
ウンベルト・エーコの書棚というのは、彼はその書棚の全部は読んでいないんだよね。ただ、「読んでいない分だけ自分の知らないことがある」という象徴のように使っているそうで。「独学大全」なんかでも言及されているんだけれども、「学ぶことはいかに自分が間抜けかということを知ること」なんて話がある。
人はどれだけ知識をため込んだところで、自分がいかに知らないかを思い知らされるばかりだという。私なんかよりもずっと賢い人々が口々にそう言っているのだから、全知なんて幻想もいいところなのだと思う。
世の中のみんながみんな本を読んでいないことなんて知っていて、また知識を得る入り口はそれこそ漫画でもインターネットでもおしゃべりの中でもいいと思っているけれど、「興味の持てない他人の書棚」が自分の知らないことの象徴であるならば、知的な謙虚さは身をもって体現しなければならないななんて改めて思ったのでした。
あーーー思うことはいっぱいあったのだけれども、どうもうまくまとまらない。価値についてとサソリとクワガタについては有料部分に。
★サソリとクワガタ。自分の夢をさらに深読みする
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