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無知の知と車輪の再発明について考えてみる

何かしらのコンテンツを作りたいなって思いつつもどんどん歳をとってしまっていたみたいな状態なワタクシなのですが、Clubhouse以前は無知の知について考え(この記事の半分くらいは1月に書いたまままとまらなくて描きかけのままに下書き保存してあった)、Clubhouseでコンテンツを作る仕事を聴きながら今度は車輪の再発明について考えてしまっていたわけですが。

私の仕事自体は、デザインではあるものの主なフィールドが広告作成だったりするので、コンテンツやビジネスを持っている人に対してそれをどう宣伝しましょうかだったり、それをもっとよくするにはどうしたらいいでしょうみたいな話をするのが本業なわけだけれども。その作業ってどっちかっていうとすでにこういうことやってるよねっていう人に対して、具体的にこういうことやってるんですよねというのを紙面(デジタルだったりはするけれど)に図であったりテキストであったりで再現するとは言わないけれども書き起こして他の人に伝えるということがメインだったりするので、言うなれば他人がやっていることを目に見える形にするという作業は割と得意だけれども、自分のコンテンツをゼロから作るのは仕事ではほとんどやったことなかったりして。
ずっと自分のコンテンツを作りたいと思いつつそれをやっていて、いつかとは思ってたのだけれども、

「いつやるの?今でしょ?」

みたいになって始めたのがnoteだったりするので、「コンテンツを作るには」みたいな話はずっとかんがえていたわけですよ。

Clubhouseで聞いたありがたいお話は(もちろんただただ雑談をしていたことも多いんだけれども)、コンテンツを生み出している方の話が多かったりして、私のやってることぬるく無いか?とか思ってしまっていた次第で。

なお、この記事は私のファンに向けてPVなど知らぬ!くらいの勢いでドン引きされるかなと思うような記事を書いていく誰得マガジンの一部なので、好き勝手にだらだらエッセイします。購入者さん違うなーって思ってたらごめんね。

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読んでいない本棚の話

以前こんな記事を書いたことがあるのだけれどもその締めくくりとして、積ん読に関してナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」から、こんな部分を引用したことがある。

読んだ本は、読んでいない本よりずっと価値が下がる。蔵書は、懐と住宅ローンの金利と不動産市況が許す限り、自分の知らないことを詰め込んでおくべきだ。歳とともに知っていることも本もどんどん積み上がっていく。読んでない本も増えていって、本棚から意地悪く見下ろしている。実際、ものを知れば知るほど読んでない本は増えていく。そういう読んでない本のコレクションを反蔵書と呼ぶことにしよう。
人間は知識を財産みたいに貯めたり、守ったりする。知識は序列を上げるために必要なお飾りなのだ。(中略)
蔵書の論理をひっくり返すのと同じように、知識そのものの論理をひっくり返すのだ。黒い白鳥は、びっくりするようなことがどれくらい起こりやすいか、つまり読んでない本がどれだけあるかを読み違うことで生まれる。私たちは自分の知っていることを、ちょっと大げさにとりすぎるのだ。

良いことにしろ、悪いことにしろ、「未知のできごと」というのは、読んでいない本の中から起きる。だからこそ、自分がどれくらいものを知らないかというのを知っておくべきだ。タレブの主張は1冊目の「まぐれ」から最新作の「身銭を切れ」まで一貫してこのことを言っている。

タレブについてさらっと説明をしておくと、「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」などで有名なユヴァル・ノア・ハラリが歴史家であり天からの目線から描く作家であるならば、タレブは統計学者で地の目線から描く作家である。個人的にはハラリが好きな方には是非読んでもらいたいなって思ったりする。たぶんタレブは、ハラリのことが嫌いなんじゃないかなっておもわなくもない記述もあるのだけれども我々一般人としては両方読んでおくと天地両方の目線からの世界観が補完される気がしています。

タレブの考え方には、「月並みの国と果ての国」というものもあって、「月並みの国」はタレブはタクシー運転手や歯科医の稼ぎ方をよく例に出しているけれども、金額の大小に限らず直接的に現実に物理的に関わることを仕事にし足し算の世界で利益を積み上げていく人の世界こと。「果ての国」とはもっと地に足のついていない世界、作家であったりとかエンターテインメントであったりおそらく金融投資であったり一種の虚構を相手にして掛け算的な利益を出す世界の話だ。

そして、悪いことにしろ良いことにしろお金が絡むような「未知の出来事」の出来事っていうのは基本的には果ての国の世界に属することだと私は理解してる。

今月の初めにこんな記事を書いていたのだけれども、月並みの現実はほぼ「現(うつつ)」の話で、果ての国とは「夢」の領域の話とも言える。夢、幻想、虚構どの言葉を使ってもいいけれども、みんなが存在を認識しているけれども現実ではあるとはいえない分野。

そういった分野では、誰も何が当たるかわからなくて、「まぐれあたり」で跳ねたり、暴落したりする。タレブの主張では、そういった「まぐれ」を「黒い白鳥」と呼んでいて統計的側面からみて誰も予測なんてできない且つ自分の知らないところからやってくるということを言っている。そりゃそうだよねって思う部分では、そもそもがそういった部分は実態のないものなので、人々の想像の上になりたっているので。

さて、話を戻すと、「読んでいない本棚」とは幻想領域の「自分が知らない」ことだったりする。

タレブの論調では読んで無い本棚がどれだけ有るか知ることで(特に悪い子ことに関して)黒い黒鳥が起こることに備えることができるという話なのだけれども。

「図書館にある本全部読んだら世界のすべてのことを知れるのかしら?」
ハリーポッターのハーマイオニー・グレンジャーのセリフであった気がするのだけれども、同じ様なことをおもったこともあったけれど絶望したことの方が多かった。どう考えても一生かかってもせいぜい読めるとしたら棚一列両面程度でここの本を全ては読み切れないことに。

さらにいうと、自分が文章を書いていてもそうなのだけれども、文章に現れるのはその人の氷山の一角にすぎないということ。

他には、同級生と話していた音楽の話、Clubhouseではなしはじめたゲームの話。自分が知らないことばかりだと繰り返し思い知らされてばっかりだったりする。タレブの考えが私にすっと入って来るのは、子供のころからのそんな原体験があるのが大きいのかもしれない。彼は読まれていない書棚こそ価値を見出しているけれども、そもそもその発想自体がある人とない人がいるからだ。

「黒い白鳥」はそういった膨大な他人の幻想の領域に隠れている。

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