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ロード・オブ・カオス

吉祥寺のUPLINKで観てきた。扇情的な告知を目にするにつけ、密かに楽しみにしていた。私は、ブラックメタルに対して特段の思い入れはない。メタルのサブジャンルとしてのブラックメタル、それ以上でもそれ以下でもないというのが偽らざるところだ。

かれこれ約30年ヘヴィメタルを聞いてきたが、なぜ自分がブラックメタルを聴いてこなかったか、映画を見ていてそんなことが頭をよぎった。どちらかと言えばヘヴィな音が好みなので、ブラックメタルを聴いていてもおかしくないのだが、事実、私はブラックメタルをこれまで全く聴いてこなかった。理由は簡単だ。私は、好きな人が「あの独特な黒板を引っ掻くような音が好き」という同じ理由で、あの音がどうしても好きになれないのである。なので、その程度の人間の戯言と思って以下聞き流してもらえればよいと思う。

私がブラックメタルというジャンルを認識したのは、大学1年生(1995年)であった。どのような経緯で会うことになったのかもう忘れてしまったが、ブラックメタルが好きだという女の子に大学近くのデニーズで会ったことがある。最近気に入っているバンドの話になって、私が「パラダイスロストがすごく気に入ってるんだよ」というと、彼女は「パラロスもいいけど今はメイヘムだね」と、さらりと「メイヘム」という単語を出したのである。私は「メ・イ・ヘ・ム❓」とポカンと反応できなかった。私はMAYHEMの存在を知らなかった。今でもよく覚えているが、ご丁寧に彼女は私に薦めるためか、初対面にも関わらず「Deathcrush」のEPを持参してきていた。それから、彼女の口から「悪魔崇拝」だの、「教会放火・殺人」だの、「ユロニマス」だの、なんだか物騒な単語がポンポン飛び出して、私は正直ついていけなかった。一見、おとなしそうな女の子であったが、話すにつれ目は爛々と輝き、バンドへの思い入れが強すぎてうまくバンドの魅力や凄さを表現しきれない感じであった。彼女も何となく自分の言葉が私に届いていないことに気づいたのだろう。私を置いてけぼりにしてしまったことを取り繕うように、これ見てよと言わんばかりに「Deathcrush」のEPを出してきたのである。私は半ば強引にその音を聞かされた。メタルあるあるだが、CDプレイヤーが壊れたのかと思うくらい音が割れていて粗雑だった。悪い意味で衝撃的で、完成度が低く、そのようなプリミティブな魅力を私は全く理解できなかった。えてして進取的な作品はそうで、当時の私にあの音を評価できる器はなかったのである。

私はまたその時に初めて、裏ジャケに写るメンバーの白塗りを見た。何かの冗談かと思った。道化とか妖しとか、おそよこの世とは隔絶された絵空事に感じた。今ではコープスペイントといって、アートとして捉える向きもあるようだが、初めてそれを見た人は誰しも失笑しただろう。彼女もその当時はまだ「コープスペイント」という言葉は使っていなかった。もっとも、それまでの彼女の口吻から私は彼女が本気であることが分かっていたので、「何これパンダじゃん」とは口が裂けても言えなかった。「え、これすごい!何なの!」と好き嫌いが分からない言い方でしか私は返せなかった。本当は死ぬほど笑いたかったが、私は彼女を傷つけたくなかった。彼女の名誉のため言うと、彼女はブラックメタルだけ聴く人ではなく、あらゆる音楽に対してオープンな人であった。MAYHEMとSAXSONを並列に語れる稀有な人であったことを付記しておく。


映画を観終わって最初に感じたのは、見る人間によって評価は当然異なるということだ。宗教心がある人が見たら発狂してしまうかもしれない。えげつないシーンも随所にちりばめられ、見る人によっては注意が必要だ。そして、映画全編で、法に抵触する行為のオンパレードなので、メタルの魅力が分からない人にとっては、触法少年の末路としか感想が出てこないかもしれない。また、商業ベースでこの手の音楽が語られることに嫌悪を抱くフリークもいるかもしれない。はたまた、ようやく世間がブラックメタルに追いついたと素直に喜ぶファンもいるかもしれない。言ってしまえば、この振れ幅こそブラックメタルの魅力だ。崇拝する人間がいる一方で、唾棄すべきものとして蔑む者がいる。ブラックメタルは度を越してこの振幅が広いと言えるであろう。


犯罪は嫌悪すべきもので、私も一小市民としてそれが許されるとは到底思っていない。青年期特有の膨大な熱量、情熱、狂気と言ってもいいが、その矛先、ベクトルを違えると数々の悲劇に繋がることは、この映画で立証された。現実と虚構の区別が難しい精神疾患を持つ人には適切なケアが何よりも大切と思われるし、映画で再現された悲劇の一つでも食い止められなかったのかと悔しさもある。映画に出てくる人種、宗教、セクシャリティに限らず、ありとあらゆる差別的言動、暴力的行為については全く共感できない。さらに、見栄や欲も、人生を加速させる要素にはなり得るものの、あまりにそれが高じると結果的にその人間の可能性を狭めてしまうことも分かった。

しかし、映画の中での犯罪行為を単なる馬鹿げたこと、自分とは関係のない他人事として考えるような人間には自分はなりたくないとあえて言いたい。自分を善人とだけ考えている人が世の中にいるのかは知らないが、私はそのようには考えない。人間は善人でもあり、悪人でもある。数々の面を持ち合わせ、日常生活の中で多面的な自分を演じているのが人間である。社会性というと身も蓋もないが、皆、日常の生活があり、社会の中で必死にその役割を全うしようとしている。その中で、ブラックメタルが突きつけるのは、自身が直視したくない負の部分(悪感情、欠点、コンプレックス)だ。自分の社会の中での無力、もしくは非力を嫌というほど叩きつけてくるから、誰しも何となく気になるのだろう。カルトや新興宗教と同根かもしれない。

これからも私がブラックメタルを聴くことはないと思う。ただ、メタルが大好きな自分としては、ブラックメタルの持つアンチへの過剰なファックユーアティテュードは大いに魅力的である。誰しもいろんなことに中指をたてながら生きてるんだろう。このクソの掃き溜めみたいな世の中で生きるにはそれぐらいの気概は必要だ(もちろんハートウォーミングな素晴らしいこともたくさんある!)。法に触れない程度に好き勝手やらせろと思う。こう言うとなんかダサいけど、こんなようなことを感じさせてくれたロード・オブ・カオス、ぜひどこかでご覧になっていただければと思う次第である。

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