滋賀医科大生集団性暴力事件の大阪高裁「逆転無罪」判決について
滋賀医科大生の集団性暴力事件は不同意性交等罪の改正刑法施行以前の発生だが、同罪には要件を明確化し判断のバラつきを防ぐ趣旨があるとされており、強制性交等罪の裁判であっても解釈、判断において参照されるべきもの。大阪高裁の「逆転無罪」判決はその意味でも誤りだと思う。
滋賀医科大生集団性暴力事件(強制性交等罪)の大阪高裁「逆転無罪」判決への批判、抗議に対して嘲笑、冷笑する者が弁護士を含めているが、これは刑法、刑事裁判の理論的一般論の話ではないんだよ。裁判官らのジェンダー意識、性差別意識の問題であり、それに基づく性的同意/不同意の評価の問題。強姦罪~強制性交等罪~不同意性交等罪という実体法の変化に関わる問題ではなく、遡及適用云々は誰も求めていない。
強姦罪時代からの裁判官らの意識の問題であるし、遅々としつつも意識変化が見られてきた中で数十年巻き戻したかの判決が下されたという問題。「姦淫は強姦・和姦を問わず多少とも有形力の行使を伴うのが常であるから……」(1969年刊『注釈刑法(4)』)。強姦罪でも当然有罪となるべき事件が、要件を明確化し判断のバラつきを防ぐ趣旨とされた不同意性交等罪という「解釈指針」ができてなお無罪とされた。
滋賀医科大生集団性暴力事件の大阪高裁「逆転無罪」判決はもちろん裁判長の個性の問題もあるが、組織としての裁判所の問題はやはり大きい。裁判官の性暴力や性差別に対する知識、認識、意識をアップデートする研修等の取り組みが不十分。そして、DVについての研修が十分に行われてきたのであれば今回の判決のような評価、結論にはなり得ないということも言える。
あるいは、#フラワーデモ を組織としても裁判所も個々の裁判官なども真摯に受け止め、自身の認識、意識を問い返していたのであれば今回のような判決には至らないし、家裁でDVが軽視されるようなことも続いていないはずだ。一部弁護士のように「気に食わない判決に女たちが反発しているだけ」等と見下し、性差別的、家父長制的意識を問い返し、見直すことがまだまだできていないのではないか。
性暴力もDVもその中核にある権力関係、支配、そのジェンダー非対称性に敏感であれば、少なくとも不合理な評価、判断には至りえない。というか、その裁判官らの論理、合理性に性差別が組み込まれていて男性化された普遍のままだから「鈍感」が標準となってしまっている。
それは、大阪高裁判決への批判、抗議を、あるいは #フラワーデモ などを「感情的」「お気持ち」と嘲笑、冷笑し、自分は論理、合理性、普遍、あるいは「リーガルマインド」の側にいると思っている弁護士らも同じ。
そしてそれは2010年代以降再帰的に強まっているバックラッシュだということ。性差別的な意識、慣習、そして制度が見直されようとし、見直されつつあることに彼は「脅威」を感じ、自覚なき既得権益を奪われまいと必死になる。自覚的には「不当な」-「剥奪」への抵抗であり、「被害者意識」が立ち上がる。
この判決への抗議署名の呼び掛け文で、裁判官訴追委員会が宛先にされているのは確かに筋が悪いとは思うのだけど、それが主目的、焦点ではないことは呼び掛け文で明らか。判決への異議、抗議を可視化することが最大の目的であり意義。
裁判官訴追委員会に対しても「個人で」訴追請求するとされ、その付帯資料として署名リストの提出を「試みる」とされている。
この署名を例えば最高裁事務総局に提出したとしても、個別の裁判について事務総局は何もできないし、してはならない。提出先が大阪高裁であってもどこであっても同じ。だから、この署名の「提出」自体は象徴的な意味しかなく、この署名を通じて大阪高裁判決への異議、抗議が可視化され、その声が裁判所、裁判官に届くことに意義がある。また、この判決について争う手段は上告しかない訳で、検察の上告を後押しすることになるのが望まれる。
肝心なことは、呼びかけ人や賛同者が求めているのは「気に食わない判決を覆したい」ということではなく、この判決につながった裁判官あるいは裁判所内の性差別的な、ジェンダー非対称的な認識、意識を問い直し、見直し、正義が通る条件を整えて欲しいということであること。それを提出先云々の話に矮小化すべきではない。
「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します。」署名の呼びかけ文より。これは不同意性交等罪なら有罪で強制性交等罪なら無罪だってことでは全くないんだよ。
暴行・脅迫の評価、判断の問題であり、裁判官の性暴力、否、男女間の性的関係に対する観念、意識の問題であり、被害者心理、加害者心理、権力(パワー)関係への敏感さの問題。 上でも引いたが「姦淫は強姦・和姦を問わず多少とも有形力の行使を伴うのが常であるから……」(1969年刊『注釈刑法(4)』)というレベルの観念、意識が未だ現役だという衝撃。
あるいは、87年の池袋事件。「ホテトル嬢」が客の男から暴行、脅迫を受け身の危険を感じ、客のナイフを奪って刺殺してしまった。正当防衛が認められず殺人で有罪となったが、そこには、「売春契約をした以上、性的自由及び身体の自由は放棄されており、保護に値しない」(一審での検察主張)、「被告人の性的自由及び身体の自由に対する侵害の程度については、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論ずることはでき」ない(二審判決)という判断があった。
これは直接的には強姦罪に対する判断ではないが、暴行・脅迫について判断する上での検察官、裁判官の観念、意識の問題を示すもの。今回の大阪高裁裁判長も同様の判断をしたかもしれないと思わせる。
今回の大阪高裁判決でも、被害者に「被害者らしさ」が求められたことが、上に引用したまとめからも報道からも窺われる。「品行方正」で「弱く」、「落ち度がない」のでなければならない。平たく言えば、「かわいそうだとは思えない」のであれば被害者とはみなされない。「セックスなんてそんなもんでしょ。特に、行きずりで、酒が入ってたなら」という意識も窺える。これは条文だ構成要件だの水準のことではないんだよ。
証拠でもある映像に被害者の拒絶の言葉が残っているが、当時加害者も信じなかったし、裁判官も信じずありふれたことのように扱った。男性の家に入ったことも予めの同意のようにみなされた。その他、被害者側の落ち度があげつらわれ、証言の信用性が疑われた。いずれも判決文の断片と言われそうだが、性暴力の実際とはあまりにかけ離れた判断がなされたと言うのに十分だと考える。
署名への揚げ足取り、ミスリードで話がずらされていくのが悲しいし怒りを覚える。
議員秘書として省庁交渉とか署名・要望書提出とかをセットするのであれば、相手先はどこがいいのか、その内容で妥当か、意味があるか等々丁寧に検討して調整するし、右から左にせずに市民運動・市民団体側にいろいろ指摘をする。少なくとも私はそうやっていた。オンライン署名を提出したいと言われたら、宛先通りの提出がいいのか、提出する趣旨を補足する必要があるかなど検討して提出者と調整するだろう。
でもさ、組織的な署名運動でもない、個人が立ち上げたオンライン署名の段階でそれを求めてどうするの?署名・賛同者はそれぞれの理解、思いでそうするのだし、それを発信する人も多い。そうやって声が可視化されていく。署名提出の方法は呼びかけ人が経過を踏まえて考える訳で、呼びかけ文では個人としてこうしたいと書かれているだけ。それを、これに署名するのは危険だなんだって飛躍が過ぎる。
もちろん、Change.orgの署名には特定の誰かを貶めたり声を封じたりしようという意図、効果があるものもあるから(むしろ今回の署名を攻撃、嘲笑している側がその種の署名を立ち上げた例はいくつもある)、そういうものに対しては批判をすればいい。
でも、今回の署名は裁判長の個人名が挙げられているからといってそういうものではないのは明白。これまでさんざん繰り返されてきて、不同意性交等罪への刑法改正にもつながった、性暴力事件の裁判の問題、性差別性を指摘、批判するもの。何より、この事件の被害者のために正義を求めるもの。
判決が誰にとっても客観的で合理的なものとして自動的に導かれるのであれば特別な職業としての裁判官はいらない。それこそ今後はAIに任せればいい。そうではないから、然るべき教育・訓練を受けた裁判官という職業、役割がある。
でもそうであるが故に、個人レベルでも集団・組織レベルでもバイアスが働く。三審制の意義はここにもある。裁判への介入は許されないが、判決に対する批判、異議、抗議の声が上がり、裁判所・裁判官が反省・自己検証するきっかけとなることも健全な姿。
ことに、性差別、ジェンダー非対称性は法そのものにも、法の解釈・適用にも深く、無自覚的に組み込まれてきた。そもそもそれは、法が作られ運用される社会のあり様、意識を反映し、また再帰的に社会のあり様、意識を規定してきた。裁判官も検察官も弁護士も無意識にそのバイアスを持ちそれが実務を導いてもきた。
だからこそ、フェミニズムは法や実務のあり様に批判的な視線を向けてきたわけだし、法や実務が信じられているほど客観的、中立的、論理的、普遍的…なものでないことは例えば法哲学、法社会学、「感情と法」研究等々で明らかにされてきたこと。
憲法76条「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」が遵守されるべきことは当然のことで、裁判や裁判官の地位への介入は許されないが、それは裁判官、裁判所にバイアスがなく無謬であることを意味しない。
そして、滋賀医科大生集団性暴力事件の大阪高裁判決への抗議や署名を攻撃し、揶揄し、嘲笑しあるいは冷笑する者はしばしば論理や普遍の名の下に言ってみせるし、「感情的」「お気持ち」「キャンセルカルチャー」といったラベルを貼ってくるけど、ここでも問われるべきは、その彼らが拠って立つと称する客観、中立、論理、普遍…に組み込まれているバイアス=性差別、ジェンダー非対称性であり、彼らの感情、無自覚の意図、動機。
たまたま並んだけどほんとこいつらはってことで怒りが湧いてる。平裕介も柴田英里もさらにその奥深くのことは知らない、わからないがまぎれもなくミソジニーに駆動されておりかつそれを否認している。その否認された感情が外部に投影されている。だから両者とも何でも「お気持ち」だ「キャンセルカルチャー」だと言って、自分を論理、合理性、普遍の側に置きたがる。その執着、執拗さは異様。
ここでの話につながって、平裕介も柴田英里も自分が定義する状況、文脈、さらには「普遍」が絶対だと信じていて手放そうとしないし、その立場から「仮想敵」を立て、そのイメージを気に食わない相手に貼り付けて見下す。その誇大感、万能感はコミュニケーション不可能な水準に膨らんでいる。
批判対象が拡散する状況になってしまっているが、本当に問題なのはこういう弁護士たちなどで、このようなミソジニー、性差別意識を今回の大阪高裁判決も共有していること。#MeToo 、#フラワーデモ 、2度にわたる刑法改正を経ても変わらない岩盤があるし、むしろバックラッシュが続いている。
だからこそ、揚げ足取りや衒学、マウントで冷や水かけることはして欲しくない。もちろん、同調圧力、暴走に対しては慎む必要はないし、前に進めるための提案、アクションはドンドンすればいい。そういう見極めこそ「冷静に」してもらえればいい。
もうさ、保護法益は「男の感情、お気持ちだ」って素直に言ってくれよ。
これも酷い論点ずらしで、いつものことだがミソジニーが露わ。しかも、ポスト、リポストはもっとある(平、山口もそう)。そして彼らは、自分の言動にミソジニーが現れていること、自分がミソジニーに駆動されていることに気づいていない、否認しているし、それを投影してフェミニストなどの「邪悪な」「有害な像」を造形している。
議員、弁護士をはじめこういう者たちが、#MeToo 、#フラワーデモ 、刑法改正、あるいは「萌え絵」炎上などでもずっとこの調子で攻撃、揶揄等してきた訳で、バックラッシュの主要な一翼を担い、暇空問題などの土壌をせっせと耕してきたし、加担もしてきた。
そして、彼らが揃って叩いてきたのがAV出演被害・防止救済法なのだが、滋賀医科大生集団性暴力事件の加害者にも判決にもAV的ファンタジーの影響あるいは関連性が認められる。AVが事件を引き起こしたとかそういう単純な話ではなく。
「AVはフィクション、想像だ」という単純な話ではなく、性暴力・性犯罪との直接的な因果関係というのとは違った水準、いわばもっと深く、見えないところで男性の(そして少なからず女性の)、女性や性的関係、性的行動に対する認知、認識、観念、信念に影響を及ぼしている。そのことが今回の事件の加害者の言動にも判決にも現れているように思われる。その歪みに対して、不正義に対して批判、抗議がされている。
こういうことへの直観があり、その直観は様々な実体験に裏付けられていてってことがあるから、みんな「おかしい」って声を上げているわけだよ。被害者の女性の立場に我が身を置いて、置かざるを得なくなって恐怖、無力感、絶望を感じている人も少なくない。それは「感情」「お気持ち」だと下に見られ、否定されるべきものではない。無意識的に加害者の男性と同一化し防衛しようとしてぶつけてくる「感情的論理」にもう一つの論理で対峙するものなんだよ。
「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します。」署名の呼びかけ文。書きそびれていたが、私はこの部分に共感し、呼びかけ人を信頼できると思った。
署名募集は中断し、活用方法について検討され、そのために問い合わせ、調査をされたとのこと。そして、募集再開で、24日午後9時で完全締切とアナウンスされた。以下の部分の記述が更新されている(マーカー部)。下線部の署名募集趣旨は変わっていない。改めて全文を丁寧に読んでもらいたいと思う。
最初っから「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します。」という表題通りの署名呼びかけであって、裁判長の訴追・罷免要求への賛同を求めるものではなかった。呼びかけ人が個人として訴追委への請求書に添付して提出することを試みるとされていたのが誇張された。呼びかけ文全体として明らかな趣旨は矮小化されてしまった。
未だに平裕介などは「罷免するキャンペーン」だ何だと執拗にミスリードして叩いている。誇張に基づく懸念表明が、こういう連中に賞賛されて揶揄に用いられているし、まじめに考えた人が署名見送りをわざわざ表明するということも起きている。
「でも、提出先が裁判官訴追委員会なのは」と思ったのであれば単に署名しなければいいだけのこと。多くの署名呼びかけはそうやってスルーされている。それが今回は声高な懸念表明が弁護士その他名の知れた人(少なくともこの問題に関心を持つような人に対して)から相次いだ。そして、意図せざることではあれ、#MeToo 、#フラワーデモ 、不同意性交等罪などに対してバッシングをしてきた連中と共鳴する結果となった。
こういう状況がある中でどう闘っていくか、被害者にどう寄り添い、守り、支えていくか。特に、発信力、影響力のある人たちには全体状況、全体構造を捉えた取り組みをお願いしたい。この困難な条件下で個人や小さいグループが声を上げ、アクションを起こしても、不必要に冷や水をかけられてしまう、梯子を外されてしまうということでは、前に進めないどころか傷ばかりが増えてしまう。
もちろん、同調圧力や忖度で異議を控えるということはマイナスであって、その意味でのオープンさ、フラットさは不可欠だし、ここで書いたように、対抗発信・行動もアテンションエコノミー的になりがちな中で、押しとどめることや、批判・異議が必要な場面は当然ある。その意味でのバランスは敏感さを要するもの。
署名提出先が裁判官訴追委員会だと騒がれ始めたのは吉田恵里香さんが叩かれた時からじゃなかったかなとふと思い出したけど、どうやらそう。やっぱり、ミソジニー、バックラッシュの側が発端(その前から、訴追委への提出に肯定的なポストがあったことも確認したが否定的ポストは見当たらない)。
バッシングに棹差しちゃうとか、擁護しつつ不必要に留保の言葉を入れちゃうとか、特に女性/フェミニストが標的の時によく起こる。無意識の線引きとか保身とかが働いているように思う。
直接的には性表現問題で書いたものだが、今回の滋賀医科大生集団性暴力事件「逆転無罪」判決や署名への攻撃と大きくかかわる論点。
何度も書いていることだけど、法クラ、表自も、暇空らも、共同親権推進派も、なんでそこまで歪んでしまったのだろうと分析すると、怒りと同時に悲しみ/哀しみを覚える。きっと彼らには傷があり、適時適切なケアを受けられなかったのだろう。彼らがグロテスクな自らの姿と決して向き合えない、向き合おうとしないのはそのため。自我を肥大化させて防衛していて、コミュニケーションが成り立ち得ないから絶望的。ほんと疲弊する。
性暴力無罪判決に対する抗議への感情的反発、女性が声を上げることへの感情的反発。性暴力・セクハラ、性的表現などいつもそうだが、要は「俺たちの聖域、既得権益を侵すな」「俺たちが馴染んできた習慣や思考にケチをつけるな」「俺たちが安住してきた秩序、規範を変えようとするな」「俺たちの姿、欲望を暴くな」…という感情的反発なんだよ。
そして、ことさらに男性を理性・論理の側に、女性を感情の側に置いてみせようとして執拗に言葉を重ねるし、「理性・論理」「感情」という言葉、概念の定義権を暴力的に行使しようとする。実際はその言葉遣い、論理操作、振る舞い…すべてに感情も無意識も露わになっている。そのことにも気づかない/否認している。
自分の中から感情が湧き上がってきたときに、それが何故なのかを辿り、根拠、論理を見出し、言語化する。その表現の仕方は目的に従って選択する。それが意識的になされる場合もあれば、無意識的になされることもある。性暴力に関わる怒りの表明や抗議は、積み重なった経験(個人的なものであれ集合的なものであれ)という背景、文脈があって声が上げられるものだと言える。
それを反射的に「感情」「お気持ち」だと言って劣位に置くことは誤り。そして、そうする者は、湧き上がってきた感情を否認し、反射的にそのような怒りや抗議を否定、揶揄、侮蔑することを合理化するために、後付けで論理を重ねてみせる。それが幾度となく重ねられて、定型がストックされ、共有されているし、それを引き出して利用することで信じるようになっている。身体化されているとも言える。
滋賀医科大生集団性暴力事件の大阪高裁「逆転無罪」判決を下した裁判長を罷免しろといっている人たちはいるし、そういう人たちがその思いを託して署名をしたこと、さらにはそういうものとして署名賛同を呼びかけていたことは確か。でも、それは署名呼びかけ文の趣旨ではなかったし、呼びかけ人が扇動した訳でもなかった。
裁判官罷免要求を扇動することは確かに危険なのだが、今回それが大きな動きになったとは到底言えない。そもそも、署名運動に乗せて罷免要求をすることの危険性という話が、今回の署名運動の危険性という話にすり替わった。「今回の署名運動を使って罷免要求するのはやめよう」と言えばよかっただけの話が、「今回の署名運動が危険だ」「署名呼びかけ文が危険だ」「署名するな」にすり替わった。
また、「こんな判決を下すような裁判官は適格なの?辞めさせられないの?」という素朴な疑問、怒りの表明までもが確信的な罷免要求と同一視されたということもある。
何度も書いているが、今回の署名運動の意義は、裁判官、裁判所の性差別意識や、性暴力の実際への無理解への批判、異議を可視化することであり、被害者への共感、ケアを可視化すること。その場を作ってくれた呼びかけ人には本当に感謝している。
様々ポイントはあるが、ここは重要だと考える。青線部の被害者の発言や事実が、判決では被害者の意図、悪意に変換されてしまっている。
①「断れなかった」は同意の推認させるものでも、不同意の不在を推認させるものでもない。
②「なんかいいんですけど」は、性暴力被害者の無力感の現われあるいは、性暴力加害者の責任追及が難しいという現実への諦めと捉えるのが適切。
③とは言え、性暴力被害の記録が存在し、拡散の恐れもあることは、性暴力被害からの回復への深刻な障害となる。動画は性暴力被害そのものと切り離せない。
④口腔性交を「当初」申告していなかったことは、原審認定の通り、被害者の記憶の欠落・混乱、解離、想起することへの無意識の抵抗は当然の反応であり不自然なことはない。むしろ、(今回は争われていないが)行為の事実やその被害の深刻さを表すものであると言える。
以上のことは性暴力被害の実際を知っていれば、反証がなければ当然に導かれること。
ところが、判決では「状況等を誇張し、自身の不利な行動を隠して矮小化して供述する明白な動機」「口腔性交【1】の事実等を隠す内容の虚偽供述をした」と被害者の悪意に飛躍、変換されてしまった。これは事実認定そのものの問題ではなく、裁判官の性暴力一般に対する認識、意識の問題。検察の立証が失敗したという主張があるがそれは論点のすり替え。
性暴力被害者に自責の念あるいは自己責任の感覚を抱かせ、被害に遭ったことを合理化させあるいは被害ではなかったことにさせる。これが被害者への直接的な脅し、圧力としてなされることもあれば、家族・友人などの「助言」としてもなされることがある。それ以上に社会通念・意識として被害者にそうさせてしまう。
それに抗って被害申告、告訴しても、警察で、検察で、そして裁判でも責められる(しばしばその間も、加害者側や社会からの脅し、圧力が続く)。被害者の証言の信用性が貶められ、被害者を支えなき宙吊り感覚にさせ、無力感、絶望感に追いやる。
このことへの異議、批判は昔からなされてきたし、#MeToo の重要な意味の一つ。それで変わってきた部分はあるが、そうではない部分もまだまだ根強く、例えば松本人志の性加害を巡っても強く出たこと。被害者の声、訴えを抑え込もうという意識的、無意識的な力、女性差別・ミソジニー。
今回の事件でもそうだが、性器挿入を避けるために手や口でとか、せめて友人などは守るために応じるとか、その被害者にとっての「最悪」を回避するための発言や行為が自発性、任意性、同意の現われとみなされてしまうということもよくあるし、加害者が取引条件のように持ち出すこともある。こうした場合でも被害者は、「理由はどうあれ自分が応じてしまったんだから」と考えてしまうことがある。
こう書けば、「同意した」とか「拒否しなかった」とかと言うのは卑劣、醜悪なことだと明らかだろうし、戦時中の性暴力など一定期間過去の事件については、こういう状況が「被害者の自己犠牲」のような美談に仕立て上げられることがある。ところが、今何等か争われているような性暴力事件になると、途端に被害者が「応じた」瞬間ばかりが強調される。
被害者側、マイノリティ側もアテンションエコノミー的に反応、行動してしまうことの問題、それが効果的な対抗にならないばかりか有害なことになり得ることは私も何度も書いていて、一般論の部分は共有できるのだが、こと今回の「逆転無罪」判決への批判、抗議について、また(これは藤田さんの著書やポストでも違和感があるのだが)ジェンダーイシューについては、その一般論を先に立てて直結させ、議論の水準を混同させてしまっているように思う。
自覚的でなくとも、男=理性/女=感情の二分法を密輸入していないか、ジェンダー秩序の強力さ・執拗さ、抵抗・攪乱の難しさという問題を軽視していないか。性暴力被害への感度も高めてもらえたらとも思う。
ここはアテンションエコノミー下ではますます見極めがたく、それ故に厄介な問題にもなり得るのだが、性暴力、セクハラ、性表現などに関わる怒りの表明、抗議は表層的には直観的、感情的にも見えてしまうのだが、キャロル・ギリガンの言う「もう一つの声」、もっと言えば「もう一つの論理」だと考えられるべき。
累積した個人的、集合的な実体験に根差したものであるし、男性的に構築され反復、強化されてきた「論理」に対して、関係的なケアの倫理に基づくオルターナティブな論理をもって抵抗、対抗するもの。
もちろん、感情の動員が暴走や論点のズレを喚起し得ることも確かで厄介な問題をはらむが、声を上げることを抑圧するようなことになっては本末転倒。暇空問題などについて繰り返し指摘しているが、元々圧倒的な非対称性があり、アテンションエコノミー下で量的、速度的にさらに不利な状況が作られてしまっている中での、声を上げること、対抗することの困難さという問題。ここにはジェンダーの視点が欠かせない。
後藤弘子さんが怒りを滲ませながら、極めて的確に、論理的に高裁判決の問題点を説明してくれている。そして、無罪判決へのみんなの怒り、抗議の焦点も後藤さんが挙げているポイントと同様であることがわかるはずだ。まさにみんな「経験則」で問題の所在をつかんでいるということ。