新・サンショウウオ戦争
第二章 文明の衝突
13 ペリー対シーボルト 両家の確執(薄毛VSカツラ)
ジーボルト会会長マテウス・ジーボルトは奴隷ヒュマンダ帰郷運動をアメリカ合衆国の新たな植民地政策であると睨んでいた。自由になったヒュマンダたちを公海に連れて行き、そこにプラットフォームを築かせてヒュマンダの独立国家であると見せかけ、実質上は支配する――そのお先棒を担いでいるのが、合衆国海軍だと看破したのである。そして、そのリーダーを務めているのがマシュー・カルブレイス・ペリーすなわちペリー提督の子孫であると知り、はらわたが煮えくり返る心地がした。
「カツラの子孫の分際で。」
吐き捨てるように言い、首を振ると薄い頭髪がはらはらと額に落ちてきた。
歴史の要所要所で衝突するジーボルト家とペリー家が初めて接触したのは、言わずと知れた幕末日本に関する案件をめぐってである。日本を追放されていた先祖フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ジーボルトは合衆国海軍の日本遠征隊に忍びこませてくれるよう頼み込んだのだが、艦隊長であったもう一方の先祖マシュー・カルブレイス・ペリーはそれをきっぱりと断った。ジーボルトは悔しまぎれに禿頭のペリーに対して「カツラ提督」と毒づき、応じたペリーはジーボルトを「薄毛博士」と揶揄するだけではあきたらず、その著書で「虚栄心の固まり」だの「ロシアのスパイ」だのとさんざんにこき下ろした。詳しい内容はペリー著「日本遠征記」を参照いただきたい。
そして三百年後、両家は再び国際舞台の場で相まみえることとなった。ヒュマンダ問題である。合衆国海軍事務官ペリー琢磨は数万にのぼる奴隷ヒュマンダを買い戻し、合衆国海軍の艦船で彼らをヒトの支配の及ばない海域へと運搬した。その際の買い戻し金や運搬費、食費その他必要費用はすべてヨーロッパおよび北米大陸の人権団体からの寄付による。この功績により、アメリカ合衆国海軍とペリーはノーベル平和賞を受賞した。
買い受けられたヒュマンダはほぼ全員、水中作業に適した姿形のものが多かった。世界の多くの人びとは帰郷運動のリーダーであるペリー琢磨のパートナーであるヒュマンダがやはりサンショウウオ色の濃い容姿であったため、彼の好みだろうと善意で安易に解釈したが、そんなはずはないと固く信じる一段のグループもあった。ジーボルト会とそのシンパである。彼らは独自の調査団をヒュマンダ帰郷地区に送り込み、それが合衆国の新たな領土拡張策であることを暴露した。