舞台演劇を配信映像で観たらキツかったので、どうしたらいいか考える
配信映像で舞台演劇を初めて観ました。その感想を書きたいと思います。
結論としては、あんまり好きじゃないな、でした。
この結論、良くない!ですね。このご時世、配信での演劇形態も多くなっているし、この形態が業界を救うだろうから、こういうことは言うべきではない、んだけど、問題点の洗い出しとかね、検討しないといけないから。演劇に関して超素人の僕は、そういうのも考えるべきだから。
まず前提の為に関係ない話(本当はあるんだけど関係ある)ですが、映像体験はいますごく贅沢ですよね、という話をします。画質だの音質だの、すんごいことになってる。
こういった映像メディアの進化の方向性は、「いかに物語に没頭させるか」ですよね。迫力のある映像技術、聴き入るような音楽、目を離せない物語の構成、展開。これらを突き詰めてきているのが映画、ドラマですね。Netflixの隆盛をみるに、映像体験はビジネスとしても先進的で、進化のスピードも早い訳です。
そんな進化を遂げてきた「映像」というメディアに、ポンと急に「舞台」が「映像」としてマッチするかといえば、まあ、合わない訳です。なぜか、というと、僕の認識だと「映像」は「物語への没頭」を目指したメディア、「舞台」はもっと別の目的をもったメディア、ということだからです。
別の目的ってなんやねん、というのを、なんとなく書きながら探していきたいと思います。しっくりくるのを。そうすると、映像メディアにおける「舞台」の違和感と、それを回避する策が見つかりそうな気がしているからです。
注意点としては、映画と舞台の物語の進み方や構成の違いを書きたい訳ではなく、「映画と舞台の物語表現の違い」を明らかにしたい、ということです。その違いが故に、「舞台の物語表現が映像というメディアにフィットするにはどうしたらいいのか」「そもそもなぜしないのか」というのを明らかにしておきたいと思います。
という訳で、映像は物語へ没頭させるべく、音響や映像技術を進化させてきた訳ですが、舞台ってそもそもそうじゃない。舞台はあくまで目の前の観客に向けて行われるものでございます。
舞台は「イマ/ココ」を共有する、なんてことを聞いたことがありますが、簡単にいうと、ライブ感を楽しむモノ、という認識です。
物語に没頭させるんじゃなくて、まさに今、ここ、目の前で起きている「出来事」に「参加」させる。これが舞台としておきましょうか。映像の様に物語への没入で満足感を与えているのではなく、舞台で起きている出来事を体感させる、という風になってるんだ、ってことですね。
ここら辺を感じたのは、以下からです。
●音が悪い
映像のメディアでは、音、すべてに意味があります。世界観を説明する環境音、物語を説明する登場人物の声、心情や状況を説明するBGM。すべてが計算されて入れ込まれている。
しかして舞台は、いらない音が「映像メディア」としては、多すぎる。
なぜか。演者がピンマイクつけてないんですよ。当たり前かもしれないですけど。それか、テレビでよくみる釣竿みたいなでっかいマイク。あれがない。これはつまり、舞台という広い所で動き回る演者の声を完全に拾えない。あと、不要な音を拾う、これですね。
僕がみた演劇の映像では、おそらく舞台中央下部にマイクが一本つけられてる。だけっぽかったです。
演者が舞台端や、後ろに移動したり、2人向かい合って話すと、途端に音が小さくなる。あと、ドタバタと移動する音が同レベルで聴こえる。
「それくらい当たり前じゃん」って人もいると思いますが、映像配信でのライバルは、映画、ドラマです。そういうコンテンツでは、あり得ないですね。
つまり、映像として舞台をみるとき、私たちはどうしても映像の物語表現を通してみてしまうので、「物語とは関係のない音」があることが、「物語への没頭」を阻害していて、それが僕にはマイナスに感じられたんだと思います。
●カメラワークのクドさ
映像表現としての物語と違って、舞台の映像のカメラワークには、意味がないんですよね。当たり前のことですけど。
つまり、印象的なシーンでの役者へのアップとか、上からの視点、下からの視点。そういうカメラでの物語の演出ないんですよ。
舞台の映像を作っているカメラはおそらく3台くらい。全体を映す定点、上下(カミシモ)に置いてあるある程度自由に動けるカメラ。こんくらいですね。
このカメラは物語の演出にはまったく寄与しておらず、舞台の役者を映しているだけ、なんです。
観ている時に、物語ではなく、「ああ、このシーンは引きの方がいいのにな」とか「ここはクドくアップで映さないでほしい」という演出の方に気が割けていくんです。
物語に没頭するメディアにおいて、物語へと没頭できないんです。
●物語の展開
これは僕の観たヤツがいけないのかもしれませんが、物語の展開で興味を引きまくる、ということがありません。演者の会話でどんどん話が進んでいきます。
これはまあ、舞台にはまさに世界観としての”舞台”を転換することが容易ではありません。だから、同じ場所、同じ構図で物語が進んでいくんです。
これ、「映像」という表現方法では退屈に感じてしまう要因なんですよね。
●役者の演技
これも、映像の物語表現とはまったく違う。映像の中で表現される人物たちは、優秀なカメラ、マイクによって、声を張り上げたり、表情を大きくつくる必要がなく、「リアル」であることが求められます(これはちょっと嘘だけど)
それに比べると、あからさまに大きな演技になっているように見えて、すこし滑稽な感覚になるんです。
●じゃあ、どうするの?
とうことですね。もちろんこれは舞台を否定している訳ではないです。舞台をそのまま映像という表現ツールに持ってくるのはいかに難しいか、ということです。その理由は先ほど述べた点からですね。
この映像としての弱点は、翻って舞台の魅力なんです。観客として定点でしかみられない、舞台の転換も多くない、にもかかわらず心を打ち、引き込まれ、巻き込まれ、感動している。これが舞台の恐ろしい魅力なのです。
あくまで映像というメディアで、ここの折り合いをどうつけるか。ここを考えていきますよ。
●答えはきっと「お笑い」に
テレビで観る舞台の演劇は、おそらく「コント」です。そしてその最たるものは「吉本新喜劇」です。
こういったものは映像で出される前提なので、「音の明瞭さ」「カメラワークの質の高さ」はかなりレベルが高いです。
話は逸れますが、僕がテレビ業界がyouruberに取って代わられない要因として思っているのは、この、「映像としての表現技術の高さ」です。
テレビのバラエティのカメラワークって、恐ろしいほど優秀です。意識してみると、ここぞ!というところでバッチリ演者を映しているし、コントの時も内容を理解したうえでそれに合わせたカメラを使っています(もちろんドラマ的なクドい演出はしない)。
ここをどうやって演劇舞台を映像化する際に取り入れることができるか。実験してみたいし、カギだと思います。
音響に関しても、もう、ピンマイク必須にすべき。(コントはもう、全部ピンマイク。M-1もセンターマイク一本だったけど、最近はガンマイクがめちゃくくちゃ頑張っているように思える。変革しています。)
舞台に置くべきマイクは演者の声を拾うのモノではなく、観客席に向けられているべき。(もっというと、観客席のど真ん中に3Dマイクを置いておくべき)
舞台という空気感を出す為に必要なことは、舞台の環境音です。ただ、映像表現として物語の推進となる演者の声ははっきりとピンマイクで拾い、会場の演出音(BGM)と、雰囲気(観客の声)も、レベルをしっかりと調整した上で流すべき、これが舞台映像の向かう先だと思います。
つまり、物語への没入は音声でしっかり行い、カメラワークは邪魔にならないちょうどよい塩梅で、そして観客の声やBGMを観客席マイクで拾って雰囲気づくり。
これが答えです。
答え出て良かった~~~~