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ぼっちを自称し吹聴する奴の心理の話

「ぼっち」とは。

ひとり”ぼっち”のこと。何かを一緒にする仲間がいないことを表している(コトバンク)。
僕個人の感覚では、ひとりぼっちでいるという意味のほかにも、陰キャだとか根暗だとかそういうニュアンスも含まれている気がする。

ぼっちは悪いこと?自慢できること?

我々人間が社会性を持つ動物であることを鑑みれば、どう考えてもぼっち=孤立状態にあることはその人自身にとってマイナスである。
ぼっちの状態にある人はぼっちであるが故に少数派であり、多数の人が友達を数人ないし数十人抱えていることは自明で、それを踏まえればぼっちがぼっちであるということには何らかのマイナスな要因があるとされ、本人かその周囲の人間かは問わず「問題」を抱えている(ていた)ことは容易に理解が出来るだろう。

Q.さて、ここに「ぼっちを吹聴するだけの理由」があるだろうか。
A.ないです(粉みかん)。

しかし驚いたことに、巷では「ぼっち」という肩書をSNSで自称して回っている輩が“大勢”いるのだ。
僕が思うに、人は基本的に自分の立場が危うくなる、または弱くなるような言動は取らない。もし表面的に自分を卑下するような言葉を口にしていたとしても、その裏にはなんらかの「自分に利益となる」ポイントが隠れていると思っていい。
そこで、僕はこの「ぼっちを吹聴する輩」がなぜそのような行動をとるのか分析してみることにした。

自称ぼっちの心理

ここまでぼっちぼっちと繰り返したわけだが、そもそもの話、完全なひとりぼっちという人間をこの世界で見つけるというのは困難だ。親の元に生まれて彼らが生きていれば厳密にはぼっちじゃないし、「一人も友達がいません」なんていう人も、正直いたとしても今回の話題では『外れ値』すぎて議論の対象になり得ない。
なのでここでは「一般人よりも友達が少ない人」を「ぼっち」と呼称するようにしたい。
上ことを仮定したうえで自称ぼっちの心理を紐解いていきたい。

よく考えればぼっちじゃない

ほとんどこれ。
自称ぼっちの話を聞いて、「中学の友達が~」だの「彼氏彼女が~」だのと宣った時点で僕はそいつを「ぼっちじゃないけどぼっちって言ってるやつ」にカテゴライズする。ファッション陰キャという言葉にあやかって言うとすれば、ファッションぼっちである。
彼らに言いたいのは「なめんな」である。ファッション陰キャにも言えることだが、本物をなめるな。本物を知ってからぼっちを名乗れ。

もちろん、家庭で話したとおり一人もお友達がいませんよなんていう人は一握りであることはわかっている。でも、それでもお前らは友達がいるよ。多いとは言わないけどいるじゃないか。
そこの線引きが難しいことは分かっている。だから僕は「簡単に残せない繋がりを持っているやつ」は基本的にぼっちから除外している。
ここでいう「簡単に残せない繋がり」は以下の「簡単に残せる繋がり」
①家族
②現在所属しているコミュニティの人間
との繋がりを除外したものである。例でも挙げた中学(現在属していないコミュニティ)の友達や恋人は簡単には残せないだろう。
そういう繋がりを持っている人間は、僕の偏見として簡単に残せるほうの繋がりも多く所持していると判断しているので、ぼっちカテゴリからはいなくなってもらうことにしている。
実際、そういう中学の時の友達と今も連絡を取っているような人はなんだかんだ友達が多少いるものだ。
よくそんなレベルで「ぼっち」などと口に出来たな貴様。恥を知れ。ぼっちを知れ。簡単に本当のぼっちの領域に踏み込んで彼らの自負を無碍にするな。汚すな。彼らのアイデンティティの1つを、何もわかっていない貴様たちが振りかざすのは万死に値するぞ。

自称ぼっちが実はぼっちじゃありませんでした、というよくある事態を乗り越えた上で。
ではなぜ彼らはそんなくだらない嘘を吐くのだろう。

これは間違いなく「なんだぼっちとか言って実は友達いるんじゃん」を期待しているに他ならない。
あらかじめ「ぼっち」を名乗っておき、自分のハードルを下げておくことで、少ない友達でも自分の社会的ステータスを落とさないようにしているのだ。

「ぼっちだけどここまでできたよ」を伝えたい

これは(僕のカテゴライズの上で)本当にぼっちだったときの話。あまりないパターンではある。
僕でも許容できる程度の「自称ぼっち人間」が、ぼっちを自称する理由。それは
自分の過去の実績を「ぼっちであることを仮定して」評価してもらいたいから。
たしかに、現状(あるいは過去から今まで進行形で)友達が少ないことは君の評価にマイナスをつける点ではある。ただ、そんな君のマイナスをゼロ、いやプラスにまで引き上げられる術がある。
それは「ぼっちだけど論法」である。普通の人が普通にやっていることを「ぼっち」であることを前提にすれば、「え、一人なのにこれできるなんてすごい」と他人に思わせることができるのである。

もちろん、友達がいると楽になることを一人の力でやるのは褒めたたえるべきことであると思う。いたいけでいじらしくて健気でかわいいかもしれない。努力は認めるべきかもしれない。

ただ僕が気に入らないのは、それが自虐風自慢になっていることだ。
良い例がある。
『ぼっちでも大学生活は問題なくおくれる!』
『ぼっちでも大学辛くないよ!』
系のYoutubeの動画によくあるのが、ぼっちだけど好成績とれた。ぼっちだけど研究成果で教授に褒められた。ぼっちだけど何らかの賞が取れた。というもの。

ぼっちを勇気付けるためにぼっちだった自分が残せた輝かしい功績を見せなければいけないという大義名分は分かる……わかりたい。
でもお前それ、結局自慢したいだけじゃん……!

やめろ。ぼっちをお前の自虐風自慢の自虐の段階に使用するな。お前の自慢という行動をかすませるための踏み台にするな。
ぼっちは……ぼっちというものは、もっとなんかこう、悲壮感漂ってなきゃダメなんだ。救えない形をとっていないとダメなんだ。もっと死を間近に感じられてなきゃダメなんだ。
でも、そんな本当のぼっちって、普通の人間の目には“見えない”もんな。いないことにされてるからな。僕も多分『本物』は見えないよ。

おわりに

「ぼっち」というステータスは、おそらく現代社会ではそんなにマイナスなイメージを持っていないんじゃないかと思う。マイナスなイメージがあっても、それは先の自虐風自慢のように、最終的にプラスのイメージへとコンバートするための踏み切り台に利用されているのがほとんどだろう。

陰キャ同様。ぼっちも、かつていた本物たちの領域はファッションでそれを着飾る奴らに侵食されてしまった。
それも、もしかすれば本当の意味でぼっちの人間たちが疎外され始めているということなのかもしれない。
ぼっちというカテゴリに自分がいて、それで自分の社会的な役割を全うしていた彼らは、ついにそのぼっちという居場所すらファッションぼっち達に奪われて、今ではただ「誰でもない存在」として地上を放浪としている。
もう一度言うが、そういう意味では、彼らは今になって本当のぼっちになれたのだろうか……。

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」を見た一般人の皆様。
あれは「救える形に整形した」ぼっちなのであって、本当のぼっちではありませんよ。

本当のぼっちは、本当の可哀想な人間は、あなたが救いたいと思うような形をしていない。それをお忘れなきよう。

P.S.
こんなこと言っておきながら、多分僕も本物に比べたらマシな方。

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