僕あるあるの話①

究極の身内ノリ

僕は身内ノリが嫌いというよりかは、他者がいるのにその人が分からなくて自分と数人が分かる話を延々とすることが嫌いである。これは人数が少ないほど嫌悪感が湧く。逆に十数人であれば仕方のないことだと感じる。
とはいえ、これは“なるべく”の話だ。身内ノリを全くしないのは不可能なので。

自分の話というのは究極の身内ノリであると言え、それ故に自分自身の身をその場からハブるという意味では究極の反身内ノリとも言えるかもしれない。

ちなみに①というのは次の投稿が②というわけではなく、多分後々思い付くからとりあえず①にしておくかという意思の表れ。

僕あるあるスタート!

閑話休題。ここからはジャンルを問わず、話題の被りも順番のランダム性も多少許した上で『僕あるある』を提示していく。

①3人で会話してると後ろ側に僕がいる。

多分、経験したことがないという人はいないはず。
要するに下の絵のような感じである。

仲間外れの図(俯瞰)

僕を語る上で欠かせないのがコレ。僕の本質の60%くらいはこれで出来ていると言っても過言ではない。
なにしろ幼少期からこの経験を積んでいて、「あなたのお友達との時間で一番印象に残っていることは?」と訊かれたら絶対にこの現象を答える。
これからはこの現象を逆茶畑現象と呼ぶ。今思い付いた。上の絵が茶畑をひっくり返したものに似てるから付けた。
とはいえ、僕も100%これになるということはなく、自分が2人側になることもなくはない。ただ圧倒的に1人側が多いというだけ。
ただ、2人側になっても会話がずっと続くことはないものの、僕が1人側になった時にはなぜか前2人の会話はかなり順調に聞こえるのは考慮すべき事項かもしれない。

最近、他人から良く「いつも一番先を歩いてどこか行っちゃう」と言われるのだが、それはこの逆茶畑が影響している。
つまりは、集団(3~5人程度)で目的地に向かっている際に、自分が周囲の話題に入れずに一人になることを恐れた結果、逆に自分から一人になってやろうという魂胆なのである。なお、この能動的逆茶畑は主に「帰るとき」に発揮される。「行き」の時は目的地が既知で慣れ親しんだ場合のみ発揮され、それ以外では基本僕は後ろ側に回る。

僕にとっての逆茶畑現象の不思議な所は、4人の時も発揮されるという点である。もちろん3人が並んで歩いていることはあまりなく、僕の隣にいるやつが伸びて前2人と会話をしているのである。これは僕が会話不能の人間だからだろう。モウシワケナイ。がんばってくれ。

②自分が無意味だと思ったことはしない(したくない)

当たり前じゃろ、という意見もあるが、これは、
「みんなはやるけど、僕は無意味だと思ってるからやりませんよ」
ということである。
例を挙げたほうが良いだろう。
例①:料理
・買った方が良い。料理する時間は料理が趣味じゃない自分にとっては無駄。あと僕は2日連続同じものを食べたくないので作り置きも不可。ということで料理するほうがコスパが悪いのだ。
例②:世間話
・しないししようと思っても出来ない。会話は何かコミュニケーション以外の目的があったするものだ。例えばしたことはないが宗教勧誘・ねずみ講・婚前交渉などか。これらは会話しないと始まらないだろう。相手の警戒心を解くための世間話も重要だと考えられる。やったことがあるのは、コミュニティ内で自分の地位を下げないための世間話ならばしたことは多々ある。他に例が思いつかないのは、僕が他人を必要とする物事から”なるべく”離れてきた・自分の人生から”なるべく”他人という存在を削ぎ落してきたからだろう。(”なるべく”は重要)
例③:上下関係に伴う悪しき風習。
・おじぎはんこ、乾杯時のコップの縁の位置、上座下座などの昭和文化のこと。意味不明なのでやらない。ただ「させていただく」系の文章はメールを送るときに上司に検閲されるので仕方なく使っている。
僕は文章で一番重要なのは「自分の言いたいことを伝えること」だと思っているので、多少の丁寧語ならまだしも、何言ってるのかわからない謙譲語尊敬語の類は、その最重要目的を阻害するならばいらないと思っている。
etc……

ただ、生憎僕にも最低限の社会性があるので「本当は嫌だけど仕方なくする」場合もある。「やりたくない」を全てやらずにいれば、いずれ人間社会から外れることになってしまうからだ。

③会話したくないのは声を出すことに対してのデメリットというのもある

会話することがない、会話する意義が感じられない、というのは当たり前として、僕が話したくない理由として、「唾が飛ぶかも」と「口臭」がある。
これはその言葉通り、口を開くことで唾が飛んだり、口臭をかがせてしまったりする危険性があるからだ。残念ながら人間の機能にこれらを完全に防ぎながら会話できるものはない。だから僕は喋らなければならない/喋りたい場合にはなるべく息を使わず、そして口に手を置きながら声を発する。これで2つの問題の大部分は解決する(と思う)。
しかしこの行動による弊害もある。それは声が小さくなることだ。本末転倒である。
外、特に東京の駅は尋常じゃなく環境音がでかい。駅構内では100%僕の声は聞こえないだろう。なので僕は良く「え?」と聞き返される。そういう時は「なんでもなーい」と返すようにしている。伝わらなかったと言う事は無駄な会話だったという事だ。仕方がない。

④『できることなら』今すぐタヒにたい(死生観)

これは死生観の話をするときに良く思う事だ。
まず仮定として、死んだ後は自分の意識がすぐに無くなる。のは確実とする。死んだ後永久の苦しみが待っているとしたらまた話は変わってくるという事である。
そして『できることなら』というのは、この意見が死ぬときの苦しみがなく、また死んだ後に自分の想定できる「他者への迷惑」もない場合に限って通じるから。

「人生太く短く」という言葉があるが、基本それと同じような感じである。今すぐ、というのは極端な結論だが、もう少し現実的に考えるのであれば、まあ40歳にはなりたくないかな、という感じ。
理由は以下の通り
①老害になる
・きっと自分のような自己中心的な人間は、老いて判断能力が鈍くなれば他人に迷惑をかける老害に成り果てるだろうから。その前に消えておきたい。自分が出来る最大級に綺麗なままで死にたいのだ。
②人生生きててもそう良いことはない
・これは理屈ではない。僕が今まで生きてきた経験による偏見である。その偏見に寄れば、生きることは苦痛をいかに咀嚼していくかなので、苦痛を享受したくない自分は「じゃああんまり生きなきゃいいか」という結論に至るのである。

⑤ファッションは二の次

僕は来ている服に”それほど”関心がない。自分に似合いそうな服を選んで仕事以外では毎回それを着ているが、おしゃれというよりかはそれ以外が体格的に似合わないという答えに行きついたからだ。
というか人間、おしゃれかどうかの大半は服ではなく顔や体型で決まると僕は思っている。デブは何来てもデブだし、痩せている人は割と何でも似合う。顔面弱者はどうがんばってもブスだし、顔面強者は大抵の服が似合う。
骨格ストレートとかいうのも良い例だ。骨格がストレートに分類される人は痩せていても「なんか太って見える」し、ウェーブの人はある程度太っていてもモーマンタイだ。
そう考えれば、ファッションコーディネートなんか「痩せろ」の一言で終わらせることができるし、「じゃあ服の事深く考えるの無駄じゃん」となるわけだ。

⑥他人は基本的に「嫌い」分類からスタート

理由①:期待しないようにするため
普通の人は初見に人間に対してはその外見から印象のプラスマイナスを決めて相手を好き嫌いへ分類すると思う。極端に言えば顔面強者女子は好きだし、薄汚いデブは嫌いとなるだろう。
僕の場合、薄汚いデブが嫌い分類なのは普通として、顔面強者女子に対しても何かと理由を付けてなんとか嫌い方向へ分類する。これは婚前交渉を主目的とする気持ち悪いスケコマシナンパ男ムーブをしないための防衛感情によるものももちろんあるが、他にも「相手に期待しないようにするため」というものがある。
これは理屈ではなく偏見で、僕の「他人は絶対に期待を裏切る」という持論から来ている。人間は基本的に好き分類の相手には無意識に期待をかけてしまうので、それを防ぐためになんとかして嫌い方向に分類するのだ。誰しも嫌いな人間にはそんなに期待は持たないだろう。

理由②:人の汚い所を素直に受け止めるため
他人の話の中で良く「あいつ良い奴だから」という言葉が出てきていた。特に大学の時の飲み会では頻繁に聞いた科白である。この言葉を聞くたび僕は「どこがや」と内心で言い捨てる。あるいは「へー、いいひとねー」とあからさまに「そう思ってない」ことを主張する。
良い奴ってなんだよ。という反論の前に、その良い奴という言葉には証拠がない場合が多い。どこがどう良い奴なのかを説明しないままただ「良い奴」と告げるのだ。彼らには他人を自主的に表する時には「良い奴」と自動的に言う機構が備え付けられているのだろうか。
また、単純に良い奴と判定するならまだしも、「『でも』良い奴だから」とかいうトリッキーな使い方をする人もいる。
彼らはその人への陰口を散々叩いた後に「でも良い奴」とか宣うのだ。「でも○○な所は良い」ではなく「でも良い奴」というなーんの根拠もない言葉を。彼らはそれで自分が陰口をたたいたことへの清算をするつもりだろうが、生憎僕には自分の発言に対する責任逃れにしか思えない。陰口や悪口は別に言っても良いと思うが、その悪口には責任をしっかり持てよ。
しかしながら、すべての言動が悪い人間などそうそういない。誰しもどこかしら良い部分がある。おそらく「良い奴」と言う彼らはその良い部分を見て悪い部分に目を瞑ることができるのだろう。

その臭い物に蓋をするような行為が、僕には歪に感じてならなかった。彼らが「良い奴」と評した人たちに自分が嫌いだった人間が多かったことも原因の一つだとも思うが、その「良い奴」という言葉で悪い部分を隠す行為が僕は嫌いで仕方がなかった。
だから僕は「でも良い奴」ではなく「だから悪い奴」と言う方向にシフトしたのだ。彼らの歪な行為(厚意でもある)を否定するために。
ただ、この意地によって僕は「良い行動をとった他人」に対しても、何か裏があったんじゃないかとか、究極的には自分の為だろ、と捻くれた捉え方をしてしまっているので、そこは困り所かもしれない。

まあ、そもそも僕は他人全体に対する評価はあまり口にしないで、他人の行動の評価を口にするようにしているし、その評価も良い悪いではなく、僕が好きか嫌いか、という表現の仕方をしている。

おわりに

他にも、ファッション陰キャが嫌い。誰かを信じるくらいなら自分を信じろ。頼られたくない。ゆっくり解説系が好き(生声解説が嫌いとも言える)。適当に喋るのは出来る。ストロー大好き。掃除できない。寝つきが悪い(人がいると高確率で寝れない)。外に出ない。メンヘラ。etc
と割と思い付くのでいつかまた続きをやりたいと思う。今回は4,500字いっちゃったのでここまで。

P.S.
僕あるあるを書くために他人に「僕あるあるって何かない?」って聞いてみたけど、あんまり出てこなくて悲しかったです。だからこの僕あるあるのほとんどは自分で考えたやつです。ナムサン

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