チュウトハンパー宣言!
何かのプロフェッショナルになりたかった。
なんでもよかった。
だけども、とにかく、何かに突出して「できる」人になりたかった。ならないといけないと思っていた。自分のどうしようもなく欠落した部分を覆い隠してくれるくらいの「優れたところ」がある人間でいたかった。そうでなければ生きる価値などない。
さまざまなことにトライした。けれども、少しの邪魔で頓挫したり、逃げ出したりした。プロフェッショナルになるために最も必要な、そのことに対する「愛」が欠けていたからだ。こんなことでは負けない、どうしてもやりたいんだ!という強い心や、これがなくては生きていけないというような執着心が、ない。
なので、わたしはいろいろなことをうっすらと知っていて、さまざまなことがなんとなく中程度にできる、なんとも中途半端な人間だ。
そんな自分が悲しくて、また、何かにチャレンジする、そして挫折する、というのを繰り返してきた。
だが、それをやっている体力や時間がなくなってきた。なんだか、このままでいいような気がしてきたのだ。これは「逃げ」とか「怠け」とか批判されるところかもしれない(そう言って自分自身を責めてきた)。
イソップ寓話に「獣vs鳥」の戦いの中で、どちらともつかない「コウモリ」の優柔不断や容量の良さが結局両方に追われることになる話があるけれど…コウモリは双方の仲介役になれたはずなのにな、とも思う。
どちらにも本当には所属できないことを悲しむよりも、真ん中あたりにいることの喜びを感じられたらいいのにな、と。
アンケートの選択肢に「どちらでもない」を入れておくと、過半数がこれを選んでしまうと言われる。ニホンジンの社会では、はっきりとした意思表示や所属を明確にして対立することが避けられ、ものごとが「穏便に」収束することが望まれてきた。
そうであるがゆえに、かえって、対立するもの同士が話し合うとか理解し合うというような経験がすくなく、方法を学ぶ機会もない。欧米ではディベートの授業なども頻繁に行われるようだけれど、日本では相変わらず「みんな仲良くするにはどうしたらいいでしょうか?」という「がまんのしかた」のお勉強なのだろう。
ジェンダー問題やワクチン接種有無などで「少数派」という名をつけて、新たな対立軸が生まれている気がする。同じ考え方のもの同士が集まって力を持父とするのはわかるけれど、相手を「否定する」態度に出てしまうのは本当に虚しい気がする。大きいものと戦うには全力で立ち向かう必要があるというのはわかるけれど、そもそも「戦う」必要があるのかどうか、を考えてもいいかもしれない。
私は、中途半端なところにいることにする。そこにしかいられないのだ。
どっちつかずな、日和見の(?)、いい加減なやつという判はあろうけれど、あえて、真ん中あたりのゆるっとした位置にいる自分を責めないでいよう思う。反する勢力の両方を批判しながらではなく、両方を「イイね!」という眼差しで見つめながら。
そういう立ち位置にいても、なにか、役割があるはず。そうだといいな。