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奇跡の起こる5分前

この人があと少しだけ生きていたら世界は変わっていたかもしれないのにとか、ここでこの飛行機に乗って立ち去っていたら災害に遭わなかったのにといった、実話を元にしたドラマや物語の中で、観客という「神の視点」をもった者だから味わうの悔しさや悲しさを感じさがある。

当然、その時点でその場所でその後の世界の展開など誰もわかっているはずはない。本人の判断やその場の事情での選択にすぎない。選択もできなかったという場合も多いだろう。だからこそ、人はそこにドラマ性を見出すのだともいえる。


苦しいことがあって、どうにもやりきれない気持ちになる時がある。解決策は見出せない。そのかわりに、悲劇的な結末は何通りも思いつく。その中のもっとも絶望的なものはその苦しみが「終わりなく続く」というものだ。ずっと、ずっと、いつまでも。終わりは見えない。自死というのを考えるのはこういう時だ。


私は、普段、こんな暗いことをじめじめ考えるくせに「奇跡」なることを信じてもいる。


天から光が降ってくるとか、どこからともなく声が聞こえるとか、そんなことじゃなくても、奇跡はある。どうして自分ばっかりこんな目に会うのだろうという理不尽な不幸と同じくらいには、あらら?あたしでいいの?というような幸運がやってくることもある(不幸の回数<幸福の回数、かどうかは実は自信がないけど)。残念なことに不幸や不運とちがって、小さな奇跡は見逃されやすいから。


終わりのない苦しみを感じる時、死んだ方が楽かなあと思う時

今が奇跡の起こる5分前だったらどうだろう?と思ってみる。


後の時代の人たちが私のことを語るのだ。


あー、あそこで諦めてなかったらねえ…この光が見えたはずなのに。

残念、もう少し続けていたらいい思いができたのにねえ。

あの人の代わりに〇〇さんがやった仕事、すばらしかったよね。


いやだいやだいやだ!なんて悔しいんだろう。

だから思うのだ。タイムマシンが発明されて今の自分を時間の外から見つめることができるようになるまでは、自分で人生をやめることはするまいと。

あと5分、1時間、1日、1ヶ月、1年、10年…そこまで絶望の日々が続くのだと実際に自分で確かめられたならしかたない。でも、反対に5分後、1時間後、明日奇跡的な幸せな出来事が待っている可能性がないわけではない。もしそうだとしたら、奇跡の起こる5分前に死んだ私を、後の人たちが憐れむかバカにするか、想像しただけで腹がたつ。

だから私は自分で自分の人生をやめたりしない。

5分後の奇跡を信じて

じゃなくて

5分後に奇跡が起こるのを知らないで死んだアホなやつよばわりされたくないから、という暗い理由からだけど。


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