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情報を「感じる」力

渋谷に無駄にできてしまった若者たちの行列に関する報道について以前少し書きました。なんでも、バッサリ二つに分けるのはもう時代遅れかもよ、っていうことをいいたかったんだけども。

こんどはこの騒動に関して、

これは「実はこんなにワクチンを受けたい若者がいる」というプロパガンダのために行政側(マスコミという見方もある)がアルバイト代を出して若者を並ばせたものだ

という情報が流れたり 【若者はワクチンに疑問を持っているのだという主張】

私はワクチンを打ちたいのだが、親が反対していて接種券を隠してしまった。ワクチンを摂取する権利は未成年にはないのか?

と悩みを相談する若者がいたり【若者はワクチンを打ちたいのだという主張】

…まあ、有象無象、種々雑多、五里霧中?なことですが。何が本当やら?? でもきっとどれも本当なのではないかと思うのです。


このnoteがそうであるように、あらゆるメディアは筆者や語り手が、自分が伝えたいと思うことを載せます。あるいは企業としてや団体として伝えたいことをかもしれないけれど。伝えたい「思い」や「考え」のために画角を制限したり、演出を施したりすることは特に責められることではない、と思っています。


ですが、これが「報道」を名乗ってやられると、始末に悪いことになります。


常に中立で、事実だけを正確に伝える…それが報道のあり方であり、実際マスコミはそうあろうとしている、と信じていますからね。え?そうでもない?

テレビ番組で「ネットではこんな話になってる」と伝え、ネットニュースでは「テレビがこう伝えた」と書かれ…で、大元はどこなの?って思ってると、あるあんまり関係ないtweetについた一個のコメントだったりする…;;

結局、これは個人的な見解を含むものなのか、事実を報道しようとしているものなのかを受け取る側が見極めないといけないっていう難しいことになっちゃうんだけど。

見極めるにしても、それを裏付ける更なる情報の信頼性をまた検証しなくては…というような無限ループに陥ることになる。

だから、まあ、カンだよね!ってなことになっちゃって、アホの子みたいだけども。味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、プラス情報選別感覚っていうことが必要かもしれないと思う。プラス、っていうより五感覚全部を総動員してってことなのかな。

真実かそうでないか、ということを考えると哲学的深淵なる議論になってしまう。自分の見たものが相手の見たものと本当に同一かどうか、真実とは存在するのか、っていう話になっていくから。

だけど、人間という動物にあたえられた本能の一つである、「考える」っていうことを忘れないでいたいと思う。妄想的に疑っても、盲目的に信じても、生活を壊してしまうからね。

自分でまずは感じる、どう感じているのかな、を意識する。それをやろうとおもう。


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