「アクセシビリティ」というものの一つの考え方
「アクセシビリティ(accessibility)」と聞くと、一般に想起するのは 「障害を持った人に向けた、何か特別なサポートやその設計」 だったりすると思うのですが、私はもう少し普通のこととして考えてみても良いのかなと思います。このアーティクルでは、私なりのいくつかの考え方をご紹介します。
アクセシビリティ → 情報への到達容易性
ある道具のアクセシビリティというものを考えたときに、ユーザーがその道具を使って「その人は情報に適切に到達できるのかどうか」と思考を巡らせてみます。道具がデジタル製品かどうかは問いません。そして、次のような観点に注目します。
ユーザーは必要な情報を得られるか
ユーザーは適切に情報を書き換えられるか
ユーザーは望んだ通りの操作を行えるか
ユーザーは満足だと感じられたか
これを別の言い方をしてみると、アクセシブルであるということは、情報に到達して何か十分に作業を行えるのかということであり、これは一言で「情報への到達容易性」「情報到達容易性」などと言い換えても良いのかもしれません。「アクセシビリティ」と横文字カタカナで書くよりも、日本語話者には意味が通じやすくなるように思います。
ちなみにaccessibilityの繁体中国語訳はGoogle翻訳によると「可及性」だそうなのですが、漢字の意味から「可能なことが及ぶ性質」というふうに捉えてみると、まあなんとなくいい感じに意図を包括していて、この表現も悪くないなと思いました。簡体字(中国本土の言語)の方では「无障碍(無障碍)」と訳すこともあり、これも日本語のカタカナ表記などよりも本質に近いところをよく表しているなと思いました。
どうでもいいけど、“a11y”って表記、アクセシビリティ悪くない?
一部の人々は、accessibility の英単語を “a11y” と略して使用しています。これがある種の記号化していて、業界用語のように流通しているようです。これと似たような言葉に internationalization = “i18n” がありますが、英単語ではこのように長い単語の間にある文字数によって略す習慣があるようです。これも一つの文化だとは思うので否定するつもりはないのですが、私個人としては、とりわけ「アクセシビリティ」というものを考える場面においては、あまり積極的には使いたくない表記です。というのも……
この “a11y” 表記ってすごくアクセシビリティが悪いような気がするんですけれども、実際のところはどうなんでしょうかね……?
アクセシビリティの真面目な話をする人たちが自らアクセシビリティを悪くしている言動のようにも見えてしまい、なんだか不思議に思えてしまいます。
まあ極端な場面を心配しても仕方がないですし、別にこのことに限った話でもないのですが、アクセシビリティという割にはなんだか姿勢が矛盾するようにも感じられ、色々な不安と疑問とが錯綜し、私はやっぱり違和感を拭いきれません。
デバイスが使えないという状況は、誰にでもあり得る
何かの拍子にマウスの調子が悪いとか、たまたまキーボードの特定のキーが故障して文字入力がうまく行えないとか、あるいはマウスは壊れていないのだけれども、たまたま今その場には持ってきていないことなど、そういった状況は誰にでも起こりうることだと思います。いずれの状況にしろ、デバイスが壊れているかどうかに関わらず、それが手元で使えないのであれば、実質「使えない」のと同じことです。
マウスやキーボードは、PCを操作するために必要な入力デバイスです。どちらか片方が使えない状況だとPCは満足に使いこなせないかもしれません。しかしmacOSやWindowsは、どちらか片方のデバイスだけでも最低限の操作が行えるように設計されています。キーボードナビゲーションやマウスによる文字入力など、さまざまな仕組みによってあらゆるユースケースに応えられるようになっているので、満足ではないにしろ、全く使えないということにはなりにくいと思います。
UIデザインのアクセシビリティを考える上で大切なことは、何か身体的な障害ももちろんなのですが、情報の送受信の手段(インタラクション)を多様化するというコンセプトに基づいてその仕組みを設計する姿勢です。
例えばあるソフトウェア製品を作る際に…
UIはキーボードナビゲーションによる操作に完全対応しているか
ソフトウェアキーボードや音声による文字入力に対応しているか
キーボード配列の違いを想定しているか
ポインティングデバイス(トラックパッドやマウス)の違いを想定しているか
その他OSのアクセシビリティ機構に対応しているか
こういった観点で設計を行ってさえいれば、少なくとも操作方法に関するアクセシビリティ品質はある程度の水準は保てるはずです。
誰もが常に満足に機能するデバイス環境にあるとは限らないので、 「たまたまデバイスが手元にない」 というような状況をまずユースケースの一つに加えてみると良いと思います。
身体の器官も「デバイス」の一種として捉える
かつてスティーブ・ジョブズがiPhoneを発表した際に、彼はヒトの指のことを「誰もが持っている世界最高のデバイス」と表現しました。厳密にはまんべんなく誰もが持っているとは限らないのですが、基本的には多くの人々が指を器用に操って複雑な操作を行える能力を有しています。そのような指を直接使えるようにすることで、iPhoneのマルチタッチは革新的に使いやすいものになったのだとジョブズはアピールしたのでした。
私は人間の身体のことを「デバイス」と表現したことが面白いと感じました。でも言い得て妙で、身体にはあらゆるデバイスが備わっているので、これらをどう使いこなすのかがインタラクションを考える上でとても重要になるのだろうと考えるようになりました。
手や指はものを掴んだり、触れたり、指し示したり、回したり捻ったりつねったりできる能力を有するデバイスです。足や脚はどうだろう? 目や耳はセンサー? 口は?
…そんなふうに、機械と同じように機能が備わった仕組みと捉えれば、物事は案外単純なのかもしれないなと思えるようになります。(実際はそうではないのかもしれませんが、意識的にはそのようなイメージを持てます。)
例えば目が不自由な人のことを想定すると、感情抜きに評価すると、それは「視覚センサーが動作不良を起こしている人」というふうにみることもできます。別にその人は好き好んで動作不良を起こしているはずもなく、たまたまそのような境遇の方なわけで。じゃあ道具を作る側としては、どのような操作方法・情報へのアクセスの方法を用意するのが良いのだろうかと。そんなふうに設計と向き合えると思います。
身体デバイスのどれとどれが使えると、このインタラクションは成立するのか
身体デバイスのどれかが使えないとき、別のインタラクションの手段が必要か
具体的にどれがアクセシビリティなのか? 皆にとってのアクセシビリティとは?
アクセシビリティはたぶんビッグワード化していて幅広い概念なので、「(ユーザーが)情報を与えて、別の情報を受けられること」に関するのであれば、どこにでもアクセシビリティの考えは通用するように思います。インタラクションや情報アーキテクチャとも密接です。
視覚情報
音声情報
触覚情報
ポインティング
文字入力
言語(英語、日本語…)
ポータビリティ(情報の活用のしやすさ、得られやすさなど)
代替手段による操作(マウスの代わりにキーボード操作、など)
挙げればキリがなさそうですが、何かUIを介して情報がやり取りされる場面で密接に関わってくるはずです。
個人的な考えでは、アクセシビリティはビッグワードすぎるので、あまり積極的には使いたくはありません。何でもかんでもアクセシビリティとも言えてしまいそうですし、そうすると訳がわからなくなりそうです。 「デザイン」とか「UX」などの言葉に対する不安と同じものがあります。それを検討すること自体は大切でも、範囲がデカすぎるので、人によって解釈がどうしてもぶれてしまうし、妙な宗派みたいなものもできやすそうです。
だから取り組みませんって話ではなく、これを自分なりに解釈をしてみて、
「こういう考え方はいわゆる『アクセシビリティ』の分野になるのだろうけども、わざわざそう言わずとも、愚直に良い設計を検討しよう」
…というような態度でも十分に思います。
あるいは、
「私にとって、操作手段が限定される、必要な情報を得られない。もしそうであるなら、私にとってはアクセシビリティが低い。君にとってはどうだろうか?」
まずはそのようなところから考え始めてみるのが良いのだと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?