私が日本語講師になろうと思ったきっかけ。
私が日本語講師になろうと思ったきっかけは、2022年のフランス旅行。それまでやっていたことが続けられなくなって、一人旅に出た。思えば今と同じ状況。
2022年5月 パリへ 一週間
翌月6月 またパリへ 10日
11月 ニースへ 一か月
パリに、ニースに魅了され、
どうにかしてフランスに住めないかなと思った。
二回目のパリとニースへはウクレレを持って行った。パリの大きな公園や森の木陰の下、ニースの美しいビーチで、ウクレレをつま弾きながらただ自分と、自然と対話するように歌を歌って過ごした。誰かに聞いてほしかったわけではないけれど、そっとやさしく話しかけてくれる人がいて、そこから始まる会話を楽しんだ。日本から来たと言えば、胸に手を当て、斜め上の方を見て目を潤ませたりしながら、「すてき!」「いつか行ってみたい!」「行ったことあるよ!」「日本が好き!」「アニメが好き!」「文化が好き!」とそれぞれの日本に対しての想いを伝えてくれた。それはどれも良い印象ばかりで、日本人がフランスと聞けば「わぁ~♡」とうっとり想いを馳せるのと似たようなものを感じた。とてもうれしかった。中には「日本人は着物を着るの?」「マッチャを淹れられるの?」と伝統的な日本文化に魅力を感じている人もいた。私の持っているウクレレを指して、「これは日本の伝統楽器?」と目をキラキラさせる人もいた(笑)
こんなに美しい国に住む人たちが、遠い東の果ての島国に、こんなに興味を持ってくれていることを知って、本当に嬉しくて、日本人に生まれたことをはじめて誇りに思った。
外国に住んで仕事をするなら、とてもその住みたい国らしいことをするか、とても自分の出身国らしいことをするかがいいと思う。
私の場合は音大でクラシック音楽を学んだから、ヨーロッパに行きたければ音楽で行くのがいちばん素直な道に思われる。実際、周りの友人の中には日本の音大や院を出てヨーロッパに渡り、そのままずっと住んでいる人やそこで結婚して家族を持った人もいて、そのような人は珍しくはない。
しかしその時すでに大学を卒業して12年が経過。いろいろありながら日本で音楽家として仕事をしてきたキャリアを卒業するタイミングでの旅だったので、その選択肢はもうなかった。
そこでぼんやりと、日本語や日本の文化を教える仕事はどうかなと思った。ニースで声をかけてきてくれた人が、(聞いてもいないのに、(笑))「知り合いの日本人が家で日本語とか日本文化を教えているよ!」とか、「私は近くの美術館でイベントを企画する仕事をしてるの。日本の歌もたくさん歌えるの?」と言って、電話番号を教えてくれたりした。何もアクションはしていないけど、そんな出逢いに少しの希望の光を感じた。
帰国してすぐに着物とお茶を習い始めた。私の自宅は京都市内ということもあり、教室を探すことは難しくない。春には自分で着物を着てお茶のお稽古に出掛けられるようになった。でも着物やお茶で海外で仕事をしようというのは現実的ではないと思った。技量や経験はもちろんのこと、私の興味や情熱がそれほどなかった。とても好きだし、着物やお茶を習うことに密かにずっと憧れていたのだが、他人に教えたいほどの好きではなかった。
しばらく、うーんと考えて、思い立ち、日本語講師について調べ始めた。
私は、15歳から専門的に声楽を学び始めて音楽大学に行き、学生時代から歌う仕事や歌を教える仕事をしてきた。歌うことは音楽にのせて”言葉を伝える”こと。また、クラシックではイタリア語、ドイツ語、フランス語、ラテン語等々で歌わなければならないし、歌うためにそれぞれの言葉を初級レベルまでは学習する。幼少時代は小さい頃から外国に憧れ、貿易会社に勤め英語が話せた祖父に英語を習って、英語教室にも通わせてもらい、マライアキャリーやホイットニーヒューストンの曲を歌いながら、中高も英語だけは必死に勉強。大学卒業後は短期間だがオーストラリアに音楽留学した。言葉や言語、世界の国や文化が大好きな私は、日本語講師という仕事に希望を見た。
日本語講師について調べ始めたのが4月頃。養成講座の説明会にも参加した。4月から始めれば年末ごろでコースが終わり、年始から日本語学校に就職活動ができる。けっこう時間かかるなー。お金もだいぶかかるなー。続けられるかな。。日本語講師は本当にしたいことなんだろうか。。と、尻込みし、養成講座はなしで、独学で日本語教育能力検定試験を目指すことにした。
つづく。